かえさない!
かえさない!
アルフレッドは彼のあるものを拝借した。別にそれが欲しかったからとか、彼を困らせてやろうという悪意から盗んだわけではない。ただ少し借りただけだ。不法に盗んだり強奪したりしたわけではない。繰り返すようだが、ただ借りただけだ。アルフレッドの言い分はこうだった。
ことの始まりは、二週間前にさかのぼる。
アルフレッドは、アーサーと喧嘩をした。喧嘩別れした後なにが原因だったかはっきりと思い出せないのが常だが、今回ばかりは違った。
いつも彼と別れて数日経つと、はてなにが原因だったかなと思うのはアルフレッドの記憶力に問題があるのではなく、あまりに彼と喧嘩しすぎていつなにが火種となって喧嘩したのだったかとかそういう細かいことまでいちいち覚えていられないからだ。やれアーサーの料理が消し炭だの、アーサーがたばこ臭いの。あるいはアルフレッドの不摂生をたしなめられたり、部屋が汚いと言われたりして喧嘩になったこともあった。たいていがそういう、言ってしまえば本人たちも覚えていないようなくだらないことが原因だった。
その点、今回は今までとまるで違っていたから、喧嘩の原因を失念して終着点を見失う心配はなかった。だが、原因がはっきりしているからといってそれがよいこととは限らない。
今回の喧嘩の原因は、アーサーの持ち物から女の子の写真を見つけたことだった。アルフレッドが何気なく借りた本の間に、古い、すこし色あせた写真が挟まっていた。十代半ばくらいの、ブロンドの美少女だった。
なるほど、彼女が君の初恋の相手ってわけかい。
本を返す際に写真を突きつけたのは、ほんのささやかないたずら心からだった。借りた本は随分昔に発行されたもので、書庫から取り出したとき、それは埃をかぶってすらいた。アーサー自身、写真を挟んでいたことも忘れていたのだろう。アルフレッドが彼にその写真を突きつけたのは、別に嫉妬したからではなかったし、彼にその女の子とどんな関係なんだいだなんて追求するつもりもなかった。写真の隅に入った年月日を見れば十年も前のものだし、写真が少しずつ色あせたようにきっと彼の中で彼女はセピア色の思い出になっているだろう。昔の甘酸っぱい思い出を掘り起こして、すこしばかりからかってやろうと思っただけだった。
だが、その写真を見た瞬間彼の頬はひきつった。手の中の写真はひったくるようにして奪われ、彼が握り込んでしまった。
「・・・・見たんだな」
見たよ、決まっているだろう。
アルフレッドは一言、
「まさか現在進行形で彼女とつきあいがあるだなんて言わないだろうね」
アーサーの眉が大きく動いた。つきあいって、そんなの会ってねえよとアーサーは口では言ったが、アルフレッドにはそれが嘘であることがわかった。彼は嘘をつくとき、眉はひくりと動くし目はアルフレッドを見ようとしない。わかりやすい、子どもでもそんな態度をとりはしないだろう、あからさまなうそつきの顔をする。
「彼女、とってもかわいいものね、さぞかしいい女になったんだろうね。俺にも紹介してくれよ」
「む、無茶言うな馬鹿! だいたいこいつは・・・」
「無茶? 俺は別に無茶な要求をした覚えはないぞ。君がそういう態度にでるならこちらにも考えがある」
「考えってなんだよ・・・・」
じゃあ答えがわからないぼんくらアーサーのためにヒントをあげよう。アルフレッドは指を折った。
「一つ、君を捨てる。二つ、君と別れる。三つ、絶縁状を送りつける。さあどれだと思う?」
「どれも一緒じゃねえか!」
「君が悪い」
アルフレッドは、借りていた本を彼の手に押しつけるときびすを返した。ああ、借りたはいいがそういえば途中で読むのをやめてしまった。ちょうど写真が挟まっていたところだ。あのブロンドの少女の写真のページで、アルフレッドのなかのこの本の内容は止まっている。気分が悪くて、もう続きを読む気になどならないから一向に構わないのだが。
「アル!」
今夜はどこに泊まるつもりだとアーサーが呼び止めた。いつもなら、アーサーの寝室に泊まる。今日もそのつもりだった。
「客室を借りるよ」
ついでにシャワーもね。
アルフレッドはアーサーを無視してバスルームを占拠した。熱い湯を浴びて、ミルク色の空気に満ちた空間で息を吐く。
もしかしたら疲れているのかもしれない。いくら同じ英語圏でも別の国であることには変わりないし、そろそろアメリカに戻ってもいいかもしれない。今の営業の仕事はおもしろかったが、同時にひどく疲れる仕事でもあった。いろいろな場所を回れるという理由で転勤ありの営業職を選んだが、いっそこれを機に本社で内勤にしてもらおうか。両親もそろそろ歳だし、ニューヨークに戻ってのんびり暮らすのも悪くない。
今までそう思わなかったわけではない。ただ、アメリカに帰ろうかと思うたび、アルフレッドは恋人のことを思い踏みとどまってきた。ロンドンで知り合った恋人のために、あと半年、あと一年、そうしてロンドンで三年を過ごしてきた。
それもそろそろ潮時なのかもしれない。今はこうして彼の傍にいられるが、営業という仕事柄いつよそへ飛ばされるかもわからない。それに結婚するなら三十までと決めていたし、子どもだってそうだ。つくるなら若いうちにつくったほうがいい。歳をとってからの子どもは養育するのに不自由するだろう。アルフレッドはもともとゲイではなかったから、一カ所に根を下ろして生活し、結婚して妻や子どもと生活する。そういうふつうの生活も悪くないのではないかと思い始めていた。
ただ、唯一の心残りはやはりアーサーだった。自分がいなくなったら、あの人はいったいどうするのだろう。寂しがり屋で意地っ張りのアーサーは、またひとりに戻るのだろうか。ああ、それも今となってはアルフレッドの杞憂にすぎなかったのかもしれない。アルフレッドは皮肉に思った。ブロンドの少女が彼にはいるのだ。
部屋履きをひっかけて、アーサーの部屋のドアをノックする。固い木の扉を敲くが、いらえはない。
「アーサー?」
ドアを開けると、彼はデスクにかけたまま眠りに落ちていた。机の上には彼が愛読している作家の小説が開かれている。どうして一見してそうとわかるかというと、アルフレッドも勧められて読んだからにほかならない。有名なファンタジー小説だった。長く壮大な物語を、アーサーはとても気に入っていて、何度読んでも新たな発見があるのだと言ってぼろぼろになるまで読み込んでいた。
組まれた腕に短い金髪が散らばっている。濃いまつげは伏せられて、書斎のランプのせいで白い頬に影を落としていた。それがひどくきれいで、恋人をいっそこのままにしておきたいと思った。このまま眠らせておいては風邪を引かずとも、体によくないことは明らかだ。だが、肩を揺すってシャワーを浴びて寝るように促す気にはなれなかった。
アルフレッドは揺り起こす代わりに、彼の目を覆っている眼鏡をそっと外した。つるを摘んでゆっくりと抜き取る。普段は矯正するほど悪くはないが、読書するときと車を運転するときだけアーサーは眼鏡をかける。本人はあまり好きではないらしいが、時折かける恋人の眼鏡がアルフレッドは嫌いではなかった。
アルフレッドは彼のあるものを拝借した。別にそれが欲しかったからとか、彼を困らせてやろうという悪意から盗んだわけではない。ただ少し借りただけだ。不法に盗んだり強奪したりしたわけではない。繰り返すようだが、ただ借りただけだ。アルフレッドの言い分はこうだった。
ことの始まりは、二週間前にさかのぼる。
アルフレッドは、アーサーと喧嘩をした。喧嘩別れした後なにが原因だったかはっきりと思い出せないのが常だが、今回ばかりは違った。
いつも彼と別れて数日経つと、はてなにが原因だったかなと思うのはアルフレッドの記憶力に問題があるのではなく、あまりに彼と喧嘩しすぎていつなにが火種となって喧嘩したのだったかとかそういう細かいことまでいちいち覚えていられないからだ。やれアーサーの料理が消し炭だの、アーサーがたばこ臭いの。あるいはアルフレッドの不摂生をたしなめられたり、部屋が汚いと言われたりして喧嘩になったこともあった。たいていがそういう、言ってしまえば本人たちも覚えていないようなくだらないことが原因だった。
その点、今回は今までとまるで違っていたから、喧嘩の原因を失念して終着点を見失う心配はなかった。だが、原因がはっきりしているからといってそれがよいこととは限らない。
今回の喧嘩の原因は、アーサーの持ち物から女の子の写真を見つけたことだった。アルフレッドが何気なく借りた本の間に、古い、すこし色あせた写真が挟まっていた。十代半ばくらいの、ブロンドの美少女だった。
なるほど、彼女が君の初恋の相手ってわけかい。
本を返す際に写真を突きつけたのは、ほんのささやかないたずら心からだった。借りた本は随分昔に発行されたもので、書庫から取り出したとき、それは埃をかぶってすらいた。アーサー自身、写真を挟んでいたことも忘れていたのだろう。アルフレッドが彼にその写真を突きつけたのは、別に嫉妬したからではなかったし、彼にその女の子とどんな関係なんだいだなんて追求するつもりもなかった。写真の隅に入った年月日を見れば十年も前のものだし、写真が少しずつ色あせたようにきっと彼の中で彼女はセピア色の思い出になっているだろう。昔の甘酸っぱい思い出を掘り起こして、すこしばかりからかってやろうと思っただけだった。
だが、その写真を見た瞬間彼の頬はひきつった。手の中の写真はひったくるようにして奪われ、彼が握り込んでしまった。
「・・・・見たんだな」
見たよ、決まっているだろう。
アルフレッドは一言、
「まさか現在進行形で彼女とつきあいがあるだなんて言わないだろうね」
アーサーの眉が大きく動いた。つきあいって、そんなの会ってねえよとアーサーは口では言ったが、アルフレッドにはそれが嘘であることがわかった。彼は嘘をつくとき、眉はひくりと動くし目はアルフレッドを見ようとしない。わかりやすい、子どもでもそんな態度をとりはしないだろう、あからさまなうそつきの顔をする。
「彼女、とってもかわいいものね、さぞかしいい女になったんだろうね。俺にも紹介してくれよ」
「む、無茶言うな馬鹿! だいたいこいつは・・・」
「無茶? 俺は別に無茶な要求をした覚えはないぞ。君がそういう態度にでるならこちらにも考えがある」
「考えってなんだよ・・・・」
じゃあ答えがわからないぼんくらアーサーのためにヒントをあげよう。アルフレッドは指を折った。
「一つ、君を捨てる。二つ、君と別れる。三つ、絶縁状を送りつける。さあどれだと思う?」
「どれも一緒じゃねえか!」
「君が悪い」
アルフレッドは、借りていた本を彼の手に押しつけるときびすを返した。ああ、借りたはいいがそういえば途中で読むのをやめてしまった。ちょうど写真が挟まっていたところだ。あのブロンドの少女の写真のページで、アルフレッドのなかのこの本の内容は止まっている。気分が悪くて、もう続きを読む気になどならないから一向に構わないのだが。
「アル!」
今夜はどこに泊まるつもりだとアーサーが呼び止めた。いつもなら、アーサーの寝室に泊まる。今日もそのつもりだった。
「客室を借りるよ」
ついでにシャワーもね。
アルフレッドはアーサーを無視してバスルームを占拠した。熱い湯を浴びて、ミルク色の空気に満ちた空間で息を吐く。
もしかしたら疲れているのかもしれない。いくら同じ英語圏でも別の国であることには変わりないし、そろそろアメリカに戻ってもいいかもしれない。今の営業の仕事はおもしろかったが、同時にひどく疲れる仕事でもあった。いろいろな場所を回れるという理由で転勤ありの営業職を選んだが、いっそこれを機に本社で内勤にしてもらおうか。両親もそろそろ歳だし、ニューヨークに戻ってのんびり暮らすのも悪くない。
今までそう思わなかったわけではない。ただ、アメリカに帰ろうかと思うたび、アルフレッドは恋人のことを思い踏みとどまってきた。ロンドンで知り合った恋人のために、あと半年、あと一年、そうしてロンドンで三年を過ごしてきた。
それもそろそろ潮時なのかもしれない。今はこうして彼の傍にいられるが、営業という仕事柄いつよそへ飛ばされるかもわからない。それに結婚するなら三十までと決めていたし、子どもだってそうだ。つくるなら若いうちにつくったほうがいい。歳をとってからの子どもは養育するのに不自由するだろう。アルフレッドはもともとゲイではなかったから、一カ所に根を下ろして生活し、結婚して妻や子どもと生活する。そういうふつうの生活も悪くないのではないかと思い始めていた。
ただ、唯一の心残りはやはりアーサーだった。自分がいなくなったら、あの人はいったいどうするのだろう。寂しがり屋で意地っ張りのアーサーは、またひとりに戻るのだろうか。ああ、それも今となってはアルフレッドの杞憂にすぎなかったのかもしれない。アルフレッドは皮肉に思った。ブロンドの少女が彼にはいるのだ。
部屋履きをひっかけて、アーサーの部屋のドアをノックする。固い木の扉を敲くが、いらえはない。
「アーサー?」
ドアを開けると、彼はデスクにかけたまま眠りに落ちていた。机の上には彼が愛読している作家の小説が開かれている。どうして一見してそうとわかるかというと、アルフレッドも勧められて読んだからにほかならない。有名なファンタジー小説だった。長く壮大な物語を、アーサーはとても気に入っていて、何度読んでも新たな発見があるのだと言ってぼろぼろになるまで読み込んでいた。
組まれた腕に短い金髪が散らばっている。濃いまつげは伏せられて、書斎のランプのせいで白い頬に影を落としていた。それがひどくきれいで、恋人をいっそこのままにしておきたいと思った。このまま眠らせておいては風邪を引かずとも、体によくないことは明らかだ。だが、肩を揺すってシャワーを浴びて寝るように促す気にはなれなかった。
アルフレッドは揺り起こす代わりに、彼の目を覆っている眼鏡をそっと外した。つるを摘んでゆっくりと抜き取る。普段は矯正するほど悪くはないが、読書するときと車を運転するときだけアーサーは眼鏡をかける。本人はあまり好きではないらしいが、時折かける恋人の眼鏡がアルフレッドは嫌いではなかった。