かえさない!
シルバーフレームの華奢な眼鏡だ。若者向けの派手なものではなく、もっと年輩の者がかけそうなそれにすこしおかしくなった。まるでおっさんだ。アルフレッドはちょっとしたいたずら心からそれをかけてみた。どうせあまり度は入っていないだろう。
「・・・・・」
かけてみると、案の定度数は低かった。免許の更新でわずかにひっかかったときに作ったものだからだ。初めて眼鏡をつくったとき慣れない眼鏡を鼻にのっけて、畜生、少しくらいいじゃねえかよと毒づいていたのをよく覚えている。
視界にフレームとレンズが入るというのは新鮮な感覚だった。見えにくい、というほどではないが、決して視界が開けているわけでもない。
「・・・・これくらいいいよね」
ロンドンの思い出に、たまに彼を思い出すよすがとして、アーサーの代わりにこれを連れていくことにしよう。
アルフレッドは彼の眼鏡をかけたまま、彼の肩にブランケットをかけると部屋を出た。
アーサーから電話がかかってきたのは、それから二週間後のことだ。
『返せよ』
アルフレッドは不躾な物言いに無性に腹が立った。二週間もの間何の連絡もよこさずに、よこしたと思ったら眼鏡を返せの一点張りだ。
「これくらいいいじゃないか」
今のアルフレッドにはほかになにもないのだから。それくらい許してくれてもいいだろうに、だが彼はただ返せと繰り返した。君は婚約を破棄したからって婚約指輪を返せと言う男かい。そう喉元まであがってきたのをぐっとこらえて、アルフレッドは言った。
「返して欲しかったら取りに来なよ」
『はあ!? てめえいったいなにを・・・』
電話の向こうでアーサーの怒鳴り声が聞こえる。アルフレッドはそれには構わずに、心の中でもう一言付け加えた。迎えにきてよ、と。アーサーは押し黙って、ニューヨーク行きのチケット代でいくつ眼鏡買えると思ってんだよばか、と呟いた。知らないよ、そんなこと。計算するのもばかばかしい。
「取り戻したいなら早く来なよ」
アルフレッドの愛を取り戻したいのなら、彼は可及的速やかに機上の人となるべきだ。
早く来て。そうして抱きしめて、ばかだなって笑って欲しい。もちろんそんなことを言った日には、アーサーをとんでもなく調子づかせることがわかっていたから口に出しはしなかったが。
『アル、』
すこし焦ったような彼の声が聞こえる。
『なあ、どうして急に帰ったんだ。俺は、そんなにおまえに嫌われるようなことをしたか?』
「そうじゃない」
『写真か? あの写真が気に入らなかったのか? あれは確かに俺が悪かった。うかつだった。いくら昔のものでも、おまえに見せるべきものじゃなかった。気を悪くしたんなら許してくれ。反省してる』
「・・・・彼女は今どうしてるんだい」
『おまえが想像したとおり俺の初恋の相手だが、あれはただの幼なじみだ。あいつは俺を好きにはならなかったし、後にも先にもなにもない』
だから帰ってこいよ。
アーサーは泣きそうな声を漏らした。おまえがいないとだめなんだ。仕事もうまくいかない。毎日気分がふさぐんだ。なあ、頼むから。
たぶん、涙ぐんでいたのだろう。電話の向こうから、鼻をぐずつかせる音が聞こえたからきっとそうだ。
「・・・・・・仕事、辞めちゃったんだぞ」
アーサーに振られたと思って、内勤にしてもらおうと思ったが社内募集していなかった。仕方なく今の営業の仕事を引き継ぐと、アルフレッドは退職してニューヨークに戻ったのだった。現在のアルフレッドの身分は求職中というやつだ。
『・・・・ばか』
彼はふっと笑って、それから迎えにいくと言った。
『おまえのご両親にも挨拶に行かなきゃな』
「本気かい」
『嫌か?』
まさか、とアルフレッドは肩をすくめた。息子さんとおつきあいさせていただいていますとでも言うつもりなのだろうか。
『責任とる、なんて言い方は好きじゃねえけど、でも俺はおまえに対して責任を負いたい。そういう立場の人間になりたい』
アーサーはゆっくりと、一語一語はっきりと発音した。
もしかして、アルフレッドが仕事を辞めたのを気にしているのだろうか。そんなこと、気に病まなくていいのに。アーサーはどこまでいってもアーサーだった。ばかで、ぐずで、どうしようもない、アルフレッドが好きになったときのままのアーサーだった。
「再就職先はロンドンにするよ」
『・・・・・アル、』
人間万事塞翁が馬、思いつきで眼鏡を拝借して、勢いで大学卒業以来勤めた会社を辞めて、それから喧嘩していた恋人とよりを戻そうとしているのだから、人生どう転ぶのかわからないものだ。
「指輪も買わなきゃね」
『太るなよ?』
アーサーは意地悪く言った。
サイズ、変わっちまうからな。今度は打って変わってやさしい声だ。アーサーが電話の向こうでそっと微笑んだのがわかった。
「君が一緒なら太らないよ」
声にならない声が電話から聞こえてきたが、アルフレッドはいたずらっぽく笑うと電話を切った。早く来てくれよ、ダーリン。そうやって電話に口づけて。
彼がどんな意味にとらえたのか、それはわからない。ただ、あらゆる意味でアーサーが一緒なら体重計に乗るのが怖くなくなることは確かだった。