餞
餞
「フランシスさん?」
冬のロンドンの街並みを歩いていると、見覚えのある青年が駆け寄ってきた。
栗色の少し癖のある髪に、目元のやさしさが見る者に温厚そうな印象を与えている。一瞬誰だか分らなかったが、高い背丈にそぐわない子供のような走り方に既視感を覚えた。
こっぽり巻いたマフラーに顔の下半分を埋め、寒さで頬を赤くしながら、彼はフランスに微笑みかけた。
「僕のこと、覚えていらっしゃいませんか」
過ぎた年月は年相応の落ち着きを彼に与えていたが、はにかんだような微笑みは変わっていなかった。フランスは、その青年を確かに知っていた。
「・・・ああ、覚えてるよ。好青年」
ふざけて肩を叩くと、その呼び方やめてくださいと青年は苦笑した。
栗色の髪の英国青年に出会ったのは、十年前のやはり雪の日だった。イギリスにホテルを追い出され、ロンドンのバーでひっかけていたときに声をかけられたのだった。
当時のいきさつを思うと、我ながら情けなくて涙が出てくる。
イギリスに今すぐ来い、来なければ体中の毛と言う毛を毟ってやると呼び出され、行ってみればレストランに連れて行かれた。予約をしていたらしく、名前を告げると奥へ通された。一体どういう風の吹き回しだろう。訝しむものの始終イギリスはだんまりを決め込み、問いかける余地を与えなかった。
それから食事をして、観劇をして、予約していたホテルに入った。
だが、それらはフランスのために用意されたものではなかった。アメリカと約束していたのに予定が入ってしまったために、イギリスが用意していたデートプラン(もっとも彼らはこの時つきあっていないのだが)はおじゃんになってしまった。アメリカが例えば寝坊して遅刻でもしてくれたのなら、フランスはわざわざイギリスまで来る必要はなかったはずだ。イギリスが待ちぼうけを食わされて、大喧嘩になってそれでおしまいだ。
だが、アメリカは事もあろうに仕事で行けなくなったことをイギリスに詫びて、その上でこう提案したのだ。
「せっかくだからフランスでも誘って、君だけでも楽しんできてくれよ」
そういうわけで、フランスは休日に呼び出される羽目になったのだ。
「お前、その仏頂面どうにかなんねえの」
「あー楽しい楽しい、すっげーたのしー」
「しょうがねえだろ! いくらアメリカが来たくたって仕事があるって言ってんだから。ほんとお前ってどうしようもねえのな」
「ばっか、お前・・・! アメリカなんかいなくたってなあ、俺は十分に楽しんでるんだぞ! たとえ連れが髭面の中年豚野郎でもな!」
イギリスのあまりの物言いに抗議したくなったが、いきなりの呼び出しにほいほい応じ、その上こんな言い草をされてなお付き合っている時点で十分豚野郎かもしれない。
「それにしても、今日のデートコース鉄板すぎじゃないか」
「うっせえ、禿げろ。お前の毛根なんか死滅してしまえ」
なるほど新しい映画だと喧嘩になりやすいのだろう。とかくイギリスは批判することを趣味にしている節があって、一緒に映画を観るとアメリカが怒りだすのは容易に想像ができた。その点古典劇であれば、結末も演出も予想が付いているから、イギリスはおろかアメリカも嘴を挟んだりしない。
しかしながらベッドがツインなあたりに、イギリスの執念と煮え切らなさを感じる。付き合ってもない男同士がツインで部屋をとるだろうか。いい歳をした親子が一緒の部屋で寝るだろうか。
いっそのことスイートにすればいいのに。部屋の中心に鎮座するキングサイズのベッドを前にすれば、さすがのアメリカも空気が読めないふりはできまい。とっとと押し倒してものにしてしまえばいいのに。そう思うと同時に、彼らの関係がそんなふうに単純に割り切れるものではないことは、フランスがいちばんよくわかっていた。
ぐちぐちとイギリスの愚痴は続く。酒で唇を湿らせて、ああでもないこうでもないと言っている。
「いい加減にしろ!」
さすがに腹が立って、一発殴ってやろうと思ったが、尖らせた唇を見たらそんな気は失せてしまった。
濃いアルコールの匂いのする口に顔を寄せる。啄ばむように落とされたそれを、イギリスは拒まなかった。
きっとイギリスは酔っている。でなければ、なんで大人しくフランスの口づけを受けたりするものか。
そうとわかっていても、やめられなかった。彼は積極的に求めることこそしなかったが、角度を変えて何度も口づけるフランスを突き飛ばすことも殴ることも蹴ることもしなかった。
舌を入れても構わないだろうか。それはさすがに怒られるだろうか。
イギリスの尻ポケットから合衆国国歌が流れてきた。
アメリカからの着信音だ。まさかアメリカがそれと気づいて電話をかけてきたわけではあるまいに、フランスは後ろ暗いところがあるからかどきりとした。
イギリスは独立以降あんなに嫌がっていたのが嘘のように、近頃合衆国国歌をアメリカからの着信音に設定しているのだ。もちろんこれはアメリカには内緒だ。と言っても、アメリカから電話を受ける時アメリカが彼の近くにいるはずもないから、第三者、例えばフランスや日本がアメリカに教えさえしなければ知られることもない。
素直に教えてやればいいのにと思う反面、わかりにくい愛情を享受するアメリカが少し羨ましくて、イギリスに脅されるふりをしてその実フランスはアメリカに教えてやろうなどと言う気は毛頭ないのだった。
「・・・もしもし、ああ、アメリカ」
イギリスはごく自然に、まるでそうすることが当然であるかのようにフランスから体を離した。
幾らか話した後、彼は電話を切り一言言った。
「アメリカ、今から来るってよ」
つまり邪魔者は帰れということだ。
もともとフランスは急用で来られなくなったアメリカの代わりに寄こされたのだ。遅れてでも本人が来ると言っている以上、代理がいつまでも居座る道理などない。
フランスは脱いだばかりのジャケットを羽織る。部屋に入るなり酔いに任せてベッドに放り投げたが、皺を作る暇も与えずに袖を通すことになった。
ドアを閉めようとして、後ろ手に振りかえる。文句の一つくらい言ってやろうと思ったからだ。
だが、何も言えなかった。イギリスの横顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
イギリスは窓際に腰かけ、外を眺めている。窓からはホテルの玄関が見える。アメリカが到着するにはもうしばらく時間がかかるだろうに。
まるい彼の頭は、きっと今頃かの子供のことでいっぱいなのだ。
「・・・怒らないのかよ」
「何を」
酔いに任せてキスしたことを。
イギリスはフランスに対して意に沿わぬことがあると口より先に手と足が出た。以前であれば、ふざけてキスなどしようものなら顎に一発お見舞いしたあと、よろめいたフランスに回し蹴りして、倒れ込んだところに鳩尾を蹴りつけるくらいのことはやっていた男だ。
それなのに、イギリスは殴ってもくれなかった。
彼がアメリカを愛していること、アメリカを優先することは構わない。
この時フランスをもっとも打ちのめしたのは、イギリスが自分を殴らなかったという事実だった。
時刻はもう遅く、自国へ帰ることもできない。
「フランシスさん?」
冬のロンドンの街並みを歩いていると、見覚えのある青年が駆け寄ってきた。
栗色の少し癖のある髪に、目元のやさしさが見る者に温厚そうな印象を与えている。一瞬誰だか分らなかったが、高い背丈にそぐわない子供のような走り方に既視感を覚えた。
こっぽり巻いたマフラーに顔の下半分を埋め、寒さで頬を赤くしながら、彼はフランスに微笑みかけた。
「僕のこと、覚えていらっしゃいませんか」
過ぎた年月は年相応の落ち着きを彼に与えていたが、はにかんだような微笑みは変わっていなかった。フランスは、その青年を確かに知っていた。
「・・・ああ、覚えてるよ。好青年」
ふざけて肩を叩くと、その呼び方やめてくださいと青年は苦笑した。
栗色の髪の英国青年に出会ったのは、十年前のやはり雪の日だった。イギリスにホテルを追い出され、ロンドンのバーでひっかけていたときに声をかけられたのだった。
当時のいきさつを思うと、我ながら情けなくて涙が出てくる。
イギリスに今すぐ来い、来なければ体中の毛と言う毛を毟ってやると呼び出され、行ってみればレストランに連れて行かれた。予約をしていたらしく、名前を告げると奥へ通された。一体どういう風の吹き回しだろう。訝しむものの始終イギリスはだんまりを決め込み、問いかける余地を与えなかった。
それから食事をして、観劇をして、予約していたホテルに入った。
だが、それらはフランスのために用意されたものではなかった。アメリカと約束していたのに予定が入ってしまったために、イギリスが用意していたデートプラン(もっとも彼らはこの時つきあっていないのだが)はおじゃんになってしまった。アメリカが例えば寝坊して遅刻でもしてくれたのなら、フランスはわざわざイギリスまで来る必要はなかったはずだ。イギリスが待ちぼうけを食わされて、大喧嘩になってそれでおしまいだ。
だが、アメリカは事もあろうに仕事で行けなくなったことをイギリスに詫びて、その上でこう提案したのだ。
「せっかくだからフランスでも誘って、君だけでも楽しんできてくれよ」
そういうわけで、フランスは休日に呼び出される羽目になったのだ。
「お前、その仏頂面どうにかなんねえの」
「あー楽しい楽しい、すっげーたのしー」
「しょうがねえだろ! いくらアメリカが来たくたって仕事があるって言ってんだから。ほんとお前ってどうしようもねえのな」
「ばっか、お前・・・! アメリカなんかいなくたってなあ、俺は十分に楽しんでるんだぞ! たとえ連れが髭面の中年豚野郎でもな!」
イギリスのあまりの物言いに抗議したくなったが、いきなりの呼び出しにほいほい応じ、その上こんな言い草をされてなお付き合っている時点で十分豚野郎かもしれない。
「それにしても、今日のデートコース鉄板すぎじゃないか」
「うっせえ、禿げろ。お前の毛根なんか死滅してしまえ」
なるほど新しい映画だと喧嘩になりやすいのだろう。とかくイギリスは批判することを趣味にしている節があって、一緒に映画を観るとアメリカが怒りだすのは容易に想像ができた。その点古典劇であれば、結末も演出も予想が付いているから、イギリスはおろかアメリカも嘴を挟んだりしない。
しかしながらベッドがツインなあたりに、イギリスの執念と煮え切らなさを感じる。付き合ってもない男同士がツインで部屋をとるだろうか。いい歳をした親子が一緒の部屋で寝るだろうか。
いっそのことスイートにすればいいのに。部屋の中心に鎮座するキングサイズのベッドを前にすれば、さすがのアメリカも空気が読めないふりはできまい。とっとと押し倒してものにしてしまえばいいのに。そう思うと同時に、彼らの関係がそんなふうに単純に割り切れるものではないことは、フランスがいちばんよくわかっていた。
ぐちぐちとイギリスの愚痴は続く。酒で唇を湿らせて、ああでもないこうでもないと言っている。
「いい加減にしろ!」
さすがに腹が立って、一発殴ってやろうと思ったが、尖らせた唇を見たらそんな気は失せてしまった。
濃いアルコールの匂いのする口に顔を寄せる。啄ばむように落とされたそれを、イギリスは拒まなかった。
きっとイギリスは酔っている。でなければ、なんで大人しくフランスの口づけを受けたりするものか。
そうとわかっていても、やめられなかった。彼は積極的に求めることこそしなかったが、角度を変えて何度も口づけるフランスを突き飛ばすことも殴ることも蹴ることもしなかった。
舌を入れても構わないだろうか。それはさすがに怒られるだろうか。
イギリスの尻ポケットから合衆国国歌が流れてきた。
アメリカからの着信音だ。まさかアメリカがそれと気づいて電話をかけてきたわけではあるまいに、フランスは後ろ暗いところがあるからかどきりとした。
イギリスは独立以降あんなに嫌がっていたのが嘘のように、近頃合衆国国歌をアメリカからの着信音に設定しているのだ。もちろんこれはアメリカには内緒だ。と言っても、アメリカから電話を受ける時アメリカが彼の近くにいるはずもないから、第三者、例えばフランスや日本がアメリカに教えさえしなければ知られることもない。
素直に教えてやればいいのにと思う反面、わかりにくい愛情を享受するアメリカが少し羨ましくて、イギリスに脅されるふりをしてその実フランスはアメリカに教えてやろうなどと言う気は毛頭ないのだった。
「・・・もしもし、ああ、アメリカ」
イギリスはごく自然に、まるでそうすることが当然であるかのようにフランスから体を離した。
幾らか話した後、彼は電話を切り一言言った。
「アメリカ、今から来るってよ」
つまり邪魔者は帰れということだ。
もともとフランスは急用で来られなくなったアメリカの代わりに寄こされたのだ。遅れてでも本人が来ると言っている以上、代理がいつまでも居座る道理などない。
フランスは脱いだばかりのジャケットを羽織る。部屋に入るなり酔いに任せてベッドに放り投げたが、皺を作る暇も与えずに袖を通すことになった。
ドアを閉めようとして、後ろ手に振りかえる。文句の一つくらい言ってやろうと思ったからだ。
だが、何も言えなかった。イギリスの横顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
イギリスは窓際に腰かけ、外を眺めている。窓からはホテルの玄関が見える。アメリカが到着するにはもうしばらく時間がかかるだろうに。
まるい彼の頭は、きっと今頃かの子供のことでいっぱいなのだ。
「・・・怒らないのかよ」
「何を」
酔いに任せてキスしたことを。
イギリスはフランスに対して意に沿わぬことがあると口より先に手と足が出た。以前であれば、ふざけてキスなどしようものなら顎に一発お見舞いしたあと、よろめいたフランスに回し蹴りして、倒れ込んだところに鳩尾を蹴りつけるくらいのことはやっていた男だ。
それなのに、イギリスは殴ってもくれなかった。
彼がアメリカを愛していること、アメリカを優先することは構わない。
この時フランスをもっとも打ちのめしたのは、イギリスが自分を殴らなかったという事実だった。
時刻はもう遅く、自国へ帰ることもできない。