餞
フランスは腐った気持ちのまま、ロンドンのバーに足を向けた。
一人で飲んでいると、何人かが声をかけてきた。足のきれいなそこそこの美人、顔は平凡だが胸の大きな子。普段なら二人まとめて相手してやるところだが、その日ばかりは気が乗らなかった。帰ろうかな、と思った時、フランスの前のカウンターに大きな影が差した。
「よかったら一緒に飲みませんか。僕も一人なんです」
すらりと高い身長と、にもかかわらず威圧感を感じさせない物腰のやわらかさが印象的な青年だった。つまるところ、きれいなものに目がないフランスの好みだった。フランスは彼を隣に座らせ、それまでのくさくさした気分を振り払うように飲んだ。
グラスを持つ手が大きい。ベッドの中で、その指はどんなふうに動くのだろう。
ちらちらとこちらを窺う様子からして、フランスに好意を抱いていることは間違いなかった。
やわらかな女の体より男の腕が恋しかった。フランスは事実今までその場限りの相手と体を合わせてきた。今、その欲求を満たすのが、この男であっても構わないはずだ。
テーブルの下、膝の上に置かれた青年の手に手を重ねて囁きかける。
「なあ、お前はどんなふうに男を抱くんだ?」
フランスの手を握り返したその手の力強さに、捩じ伏せられる期待に喉が鳴った。
二人してホテルに入った。イギリスがアメリカのために押さえていた一室とは大違いの、寝るためだけの部屋だ。今の自分には似合いかもしれない。
とにかくひどくされたい気分だった。物のように扱われて、相手の思うままにされたかった。素性も事情も知らない相手になら、恥じらいも遠慮もなく足を開いて強請ることだってできる。フランスはそういう男だった。
しかし彼は自分から声をかけたくせに、事に至るや妙に手際が悪くもたついていた。彼は、男は初めてだったのだ。
その事実に、フランスはひどく腹を立てた。
フランスが欲しかったのは一晩限りの愛を切り売りしてくれる相手だ。いつもであれば、初めての相手もまた一興とばかりに丁寧に手ほどきしてやるのが常だったが、この日ばかりは勝手が違った。
「待って下さい・・・!」
興ざめして部屋を出ようとしたところで、彼に告白された。
彼はヘテロで、おまけに女性経験も乏しく、それからフランスにどうしようもなく恋してしまったのだということを訴えた。
突拍子のないカミングアウトに、フランスは驚き呆れ、そして唐突にこの青年を傷つけてやりたくなった。青年はあまりにも純真だった。自分の中にため込んだ鬱屈が凝り固まり、悪意の化け物になって、彼を切り裂いてやりたいとむくむくとその鎌首をもたげてきた。
うぶな青年の手をとり、ゆっくりとその腕を自分の背に回させる。両足で彼の腰骨をやさしく捉え、耳朶を甘噛みしてやった。とびきりの、そう、どんな色ごとに慣れた美男美女でもどきりとさせるような、フランスが自惚れてやまない声色を使って耳元に囁きかける。
「俺のことが好き?」
顔を紅潮させて、こくこくと頷く青年はまさしく初めて恋を知った少年の顔だった。
「でも、俺はお前を好きにはならない」
声の甘さに反して、台詞はあまりにも辛辣だった。
青年は一体どんな反応を返してくるだろう。
以前付き合っていたある男は、別れ話に際してフランスを自宅へ拉致し軟禁した。その男は、愛しているんだ、なんで別れようとするんだと泣きながらフランスへ乱暴した。殴られながら、その馬鹿馬鹿しさに笑った。
ひどい生活だった。
あの男はフランスを愛していると言いながら殴り、フランスと離れたくないといいながら賭けごとをやめようとしなかった。
ほうほうの体で男の家を逃げ出し、自宅へ帰った。それなりに愛してもいたから、フランスが所有するマンションのうち一つの合鍵を渡していた。しかしさすがに気味が悪くて、男に知られていない別の家に戻っていた。数日経って男の知るマンションを訪れると、家財の一部がなくなっていた。書籍、パソコンなど持ち運びやすく、おおよそ値のつくものは持ち去られていた。悲しいとかそんな恋人らしい感傷に浸るよりも、ただただ呆れたものだった。
だが、フランスは知っている。あれであの男はフランスを愛していたのだ。きっと遊びではなかった。本気で、頭がおかしいくらい、あの男はフランスを好きだった。
あの時以来、フランスは本気で自分を愛していると嘯く人間を恐れるようになった。フランスは、あの男のなかにイギリスを見ていた。顔かたちが似ていたわけではない。ただ、馬鹿馬鹿しいほど重い愛と、それを裏付けない裏腹な言動が、自分のよく知るあの隣人によく似ていると思った。
みっともなく泣きながらフランスを殴ったあの男の元をすぐに離れなかったのは、フランスがマゾヒストだからではない。フランスがあの男を愛し、更生させてやろうと考えたからでもない。
「好きな奴がいるんだ。お前とはつきあえない」
甘い、甘い声で囁く。
殴られるだろうか。
今、手を出されたら抵抗のしようがない。わかっていながら、フランスは抱きこんだ男を離さなかった。
「そう言うのなら、どうして俺を誘ったんですか」
「一夜限りの愛を求めることが悪いことだとは教わらなかったものでね」
好青年は体を起こし、未だ俎上の鯉であるフランスから目をそらした。脱ぎかけの中途半端な格好のままで、青年はベッドの縁に腰かけた。
「俺は、こういうことは好きな人とするんだと思ってました」
「お前のことももちろん好きだよ。でなきゃセックスなんてしない」
「でも、あなたには想う人がいる。それはおかしいと思いませんか」
「愛を注ぐ相手は多ければ多いほど人生を潤すんだよ、好青年」
年長者の余裕でもって、フランスはにっこりと笑った。
この男も今までの相手と同じ。フランスが欲しくてたまらないのだ。祖国を愛さない国民がいるだろうか。たとえフランスが正体を隠していても、どんな男であれ女であれ、いつの時代も国民たちはフランスを愛さずにはいられないのだった。
だが、彼の目の色を見てフランスは気がついた。青年はフランス人ではない。
間違えようもないイギリス英語で、彼ははっきりと発音した。
「あなたのそれは愛とは呼ばない」
まさか、自分を探していたのか。
フランスの疑問と、それによって生じた幾らかの恐怖を感じ取ったわけでもあるまいに、青年はそっと微笑んだ。
「この近くのホテルが僕の職場なんです」
ねんねのような甘ったるい話し方は変わらなかったが、青年の頬の肉は削ぎ落ち、大人の男らしいラインを形作っていた。これまで「青年」と呼んできたが、彼はもう青年と呼ぶには立派すぎる大人の男になっていた。この青年と出会ってから、十年も経つのだ。それも当然のことだった。
昔とは何もかも違う。
この青年が年齢とともに大人の落ち着きを備えたように、イギリスもアメリカも変わってしまった。それだけの時間が経ったのだ。変わらないのはフランスひとり。自分だけが、旧い感傷に囚われ、取り残されているのだろう。
「どうしてあなたがそんな顔をするんですか」
「・・・え?」
「あなたを好きだったのは僕のほうだったはずです。それも一方的に」