代用煙草と白昼夢。
ギリシャが目を開くとそこはやはり縁側であった。しかし様子がおかしい。焼けた鉄のような臭いがどこからか漂ってくる。
ここは──日本のはずだ。湿って温かくて、どこか醤油臭く何もかもがこじんまりとしている、大好きな国。だが、何かが違う。
決定的な違和感は眼にした光景だった。
縁側に面した日当たりの良い部屋は日本の書斎として使われている部屋で、自分やほかの連中が泊まりに来たときは客間に変わる。まめに掃除されているのか、いつ自分が顔を出しても清潔に整えられた室内はどこか冷え冷えとしていて、うつくしい。
通される度に、怜悧な彼の内面に立ち入っているようで、緊張させられる空間だった。それが、違う。
いつ取り替えられたかも定かではない黄ばんだ畳の上に、インクの飛び散った書類や本が乱雑に積み重なっている。
天井に据え付けられた繊細な和風の照明器具の代わりに、裸電球に厚紙の光傘を被せたものがぶら下がっていた。
部屋の奥では白い軍服を着た男が低い声で唸りながら、書類の束にかじりつくように目を通していた。背を向けたその姿には覚えがあるようで、とても違和感がある。
「……日本?」
一応声をかけてみる。深刻そうな様子で何を考えているのだろう。
また中国の工場で不届き者がギョーザに毒でも混ぜたのか、今度はチマキとかハルマキに混ざってたのだろうか。日本は食べ物のことになると時折狂う。マグロとかクジラの話題になると絶対にジョウホもゼンショもなし、勝つまでやるのだ。
振り返った彼と目が合った。
鋭い眼光に一瞬身が竦む。狂気を孕んだ血走った眼。ギリシャの知る彼ではない。
縁側から気の抜けた顔で自分を見つめる見知らぬ外国人に気がついた日本は、彼の姿を一瞥し──くたびれた軍服らしきものを着た男の姿を認めると、直ちに懐中から銃を抜き、素早く劇鉄を下ろして撃った。肩に一発、二発。貫通した弾が庭の木囲いに穴を開ける。
「こんな場所で外国人が何をしているのですか?」
苦痛の声をあげて倒れた男に、油断なく軍刀を抜いて近づく。何か怪しい動きをしたら、ただちに止めを刺すつもりでいた。死体は無口であるから、彼がどこから何を求めて来た誰なのか教えてくれない。できれば何か話せる内に憲兵に引き渡したい。動くな、と淡い褐色を帯びた喉元に銀色の刃を突きつける。
倒れた男を日本はためつしがめつ、もう一度上から下まで見つめた。
北方系の白人──戦友たるドイツの上司が執着してやまぬゲルマン系に多い金髪碧眼ではないようだが、顔立ちからして明らかにアーリア人種の特徴を有している。青い眼と日焼けした肌、癖を帯びた茶色い髪。目立ちすぎる。黒髪黒目黄肌のアジア人の国にこんな間諜を送ってどうするつもりだ、といぶかしく思う。
「……今は西暦何年?」
倒れた男が何か口走った。
「頭がどうかしてるんですか?皇紀2605年です。西歴なら1945年」
答えてから、やや間があった。
「そうか……」
男の返事を聞きながら何かに思い当たる。話している言葉は明らかに日本語ではないのに、直接意味を感じ取れる。男の口から出たのは実際にはヤア、といったような音で、どこの国の言葉とも知れない。
「……俺は間諜でもないし敵でもない。話せば分かる」
「まさかご同類とはね。敵かどうかはこちらで判断します」
撃たれた痕を押さえながら男が立ち上がる。その肩を蹴って、また横になるよう命じた。
どこの誰だったとしても、自分と同じような存在だとすればこの場でいくら傷つけた所で無意味だ。
水面に映る花の影に波を立てるようなもの──と聞いた風な事を言ったのは誰であったか──。本当の意味で我を傷つける事など、おまえたちの誰にも出来はしない、と同じように足下に這わせた者がそう呟いたのを覚えている。
今頃、彼は南方戦線で無様な敗北を喫したこちらの体たらくを知って、喜び勇んで反撃の準備をしていることだろう。忌々しい。
しかしまずは目の前の相手の処理だ。縁側に倒れたままの男を部屋に引きずり上げ、尋問を始めることにした。
「あなたの名は?」
よりによって一番戻りたくない時代の夢を見てるのか、とギリシャはテンパった目で自分の事をにらみつけている日本にうんざりする。世界で一番可愛い人のこんな悲惨な姿は直視したくない。
悪夢に限ってなかなか覚めないものではあるが、これはひどい。頬がこけて目が落ちくぼんでがりがりな日本を見ていると気が滅入ってきた。
嫌な時代だった。確か突然侵略してきたイタリアを追い返したら今度はドイツに空爆されて散々な目に遭っていた時期だ。あそこで戦力を割いたから枢軸側が負けたとかなんとか、戦後に「WW2負け組を囲む仲直り宴会」を開催したフランスから聞いたような気がする。
「黙秘権はありませんよ。黙ってないで答えなさい」
日本の手の中の銃がすかさず火を吹いた。ギリシャの頬を掠めて飛んだ弾が床の間の柱にめり込み、考え事をしていると黙ってしまう癖は直さないとな……と改めて思う。
こめかみにまだ熱い銃口を押しつけられて、渋々答えた。肩の傷の痛みといい、夢のくせにこんな部分までがやけにリアルだ。
「正式名称はエリニキ・ディモクラティア」
「……どちらさんですか」
「国際交流上の通名はギリシャ」
「ああ……ええと、そんな国があったような」
「位置はヨーロッパとイスラム圏のちょうど境目。地中海付近で……、トルコという限りなく鬼畜で狂った国と向かい合っていて、アルバニアというこの世の地獄のようなおぞましく破廉恥な国と国境を接している不幸な国だ」
「そういう話を聞くと島国でよかったな、と思いますね、ふむ」
「……だろう。うちも太平洋の真ん中あたりに一人でぷかぷか浮かんでいたかった……」
「それはそれでいろいろと悲惨な目に遭いそうですよ。しかし、素性が分かったのはいいとして、貴方は連合国側じゃないですか。憲兵呼びますからしばらく拷問でもされてきなさい」
「えええ。痛いのやだ」
ギリシャの答えに日本は激高する。持病の高血圧は敗戦間近の今、ますます悪化しているようだった。
「国のくせにだらしない! 戦において痛い目を見るのは我々の義務です」
そういうと日本は壁に備え付けられた実に懐かしい形式の電話の受話器を手に握りしめ、交換手になにやら叫びはじめた。すかさず電話の受話器を日本の手からひったくって叩き切り、説得を試みる。そんな妙な所に連れて行かれてはたまらない。
「実は……俺は未来から来たんだ。2007年の世界がどんな風になっているか、ちょっと聞きたくならないか?」
……何なんだこいつは。
日本はシミだらけの天井を仰いだ。灯火規制のために厚紙を被せられた裸電球がぽつんとぶら下がっている。
先ほどまでの緊張感は嘘のようにかき消え、狙い澄ましたように蝉の鳴き声がうるさく響き始めた。
自称(?)ギリシャこと未来からの旅人は軍服のジャケットを片袖だけ下ろすと、肩に残る銃痕に指をつっこんで弾をほじくり出し始める。見る間に傷口が癒え始めるあたり、やはり彼は自分と同じような非常識な存在ではあるようだった。
ここは──日本のはずだ。湿って温かくて、どこか醤油臭く何もかもがこじんまりとしている、大好きな国。だが、何かが違う。
決定的な違和感は眼にした光景だった。
縁側に面した日当たりの良い部屋は日本の書斎として使われている部屋で、自分やほかの連中が泊まりに来たときは客間に変わる。まめに掃除されているのか、いつ自分が顔を出しても清潔に整えられた室内はどこか冷え冷えとしていて、うつくしい。
通される度に、怜悧な彼の内面に立ち入っているようで、緊張させられる空間だった。それが、違う。
いつ取り替えられたかも定かではない黄ばんだ畳の上に、インクの飛び散った書類や本が乱雑に積み重なっている。
天井に据え付けられた繊細な和風の照明器具の代わりに、裸電球に厚紙の光傘を被せたものがぶら下がっていた。
部屋の奥では白い軍服を着た男が低い声で唸りながら、書類の束にかじりつくように目を通していた。背を向けたその姿には覚えがあるようで、とても違和感がある。
「……日本?」
一応声をかけてみる。深刻そうな様子で何を考えているのだろう。
また中国の工場で不届き者がギョーザに毒でも混ぜたのか、今度はチマキとかハルマキに混ざってたのだろうか。日本は食べ物のことになると時折狂う。マグロとかクジラの話題になると絶対にジョウホもゼンショもなし、勝つまでやるのだ。
振り返った彼と目が合った。
鋭い眼光に一瞬身が竦む。狂気を孕んだ血走った眼。ギリシャの知る彼ではない。
縁側から気の抜けた顔で自分を見つめる見知らぬ外国人に気がついた日本は、彼の姿を一瞥し──くたびれた軍服らしきものを着た男の姿を認めると、直ちに懐中から銃を抜き、素早く劇鉄を下ろして撃った。肩に一発、二発。貫通した弾が庭の木囲いに穴を開ける。
「こんな場所で外国人が何をしているのですか?」
苦痛の声をあげて倒れた男に、油断なく軍刀を抜いて近づく。何か怪しい動きをしたら、ただちに止めを刺すつもりでいた。死体は無口であるから、彼がどこから何を求めて来た誰なのか教えてくれない。できれば何か話せる内に憲兵に引き渡したい。動くな、と淡い褐色を帯びた喉元に銀色の刃を突きつける。
倒れた男を日本はためつしがめつ、もう一度上から下まで見つめた。
北方系の白人──戦友たるドイツの上司が執着してやまぬゲルマン系に多い金髪碧眼ではないようだが、顔立ちからして明らかにアーリア人種の特徴を有している。青い眼と日焼けした肌、癖を帯びた茶色い髪。目立ちすぎる。黒髪黒目黄肌のアジア人の国にこんな間諜を送ってどうするつもりだ、といぶかしく思う。
「……今は西暦何年?」
倒れた男が何か口走った。
「頭がどうかしてるんですか?皇紀2605年です。西歴なら1945年」
答えてから、やや間があった。
「そうか……」
男の返事を聞きながら何かに思い当たる。話している言葉は明らかに日本語ではないのに、直接意味を感じ取れる。男の口から出たのは実際にはヤア、といったような音で、どこの国の言葉とも知れない。
「……俺は間諜でもないし敵でもない。話せば分かる」
「まさかご同類とはね。敵かどうかはこちらで判断します」
撃たれた痕を押さえながら男が立ち上がる。その肩を蹴って、また横になるよう命じた。
どこの誰だったとしても、自分と同じような存在だとすればこの場でいくら傷つけた所で無意味だ。
水面に映る花の影に波を立てるようなもの──と聞いた風な事を言ったのは誰であったか──。本当の意味で我を傷つける事など、おまえたちの誰にも出来はしない、と同じように足下に這わせた者がそう呟いたのを覚えている。
今頃、彼は南方戦線で無様な敗北を喫したこちらの体たらくを知って、喜び勇んで反撃の準備をしていることだろう。忌々しい。
しかしまずは目の前の相手の処理だ。縁側に倒れたままの男を部屋に引きずり上げ、尋問を始めることにした。
「あなたの名は?」
よりによって一番戻りたくない時代の夢を見てるのか、とギリシャはテンパった目で自分の事をにらみつけている日本にうんざりする。世界で一番可愛い人のこんな悲惨な姿は直視したくない。
悪夢に限ってなかなか覚めないものではあるが、これはひどい。頬がこけて目が落ちくぼんでがりがりな日本を見ていると気が滅入ってきた。
嫌な時代だった。確か突然侵略してきたイタリアを追い返したら今度はドイツに空爆されて散々な目に遭っていた時期だ。あそこで戦力を割いたから枢軸側が負けたとかなんとか、戦後に「WW2負け組を囲む仲直り宴会」を開催したフランスから聞いたような気がする。
「黙秘権はありませんよ。黙ってないで答えなさい」
日本の手の中の銃がすかさず火を吹いた。ギリシャの頬を掠めて飛んだ弾が床の間の柱にめり込み、考え事をしていると黙ってしまう癖は直さないとな……と改めて思う。
こめかみにまだ熱い銃口を押しつけられて、渋々答えた。肩の傷の痛みといい、夢のくせにこんな部分までがやけにリアルだ。
「正式名称はエリニキ・ディモクラティア」
「……どちらさんですか」
「国際交流上の通名はギリシャ」
「ああ……ええと、そんな国があったような」
「位置はヨーロッパとイスラム圏のちょうど境目。地中海付近で……、トルコという限りなく鬼畜で狂った国と向かい合っていて、アルバニアというこの世の地獄のようなおぞましく破廉恥な国と国境を接している不幸な国だ」
「そういう話を聞くと島国でよかったな、と思いますね、ふむ」
「……だろう。うちも太平洋の真ん中あたりに一人でぷかぷか浮かんでいたかった……」
「それはそれでいろいろと悲惨な目に遭いそうですよ。しかし、素性が分かったのはいいとして、貴方は連合国側じゃないですか。憲兵呼びますからしばらく拷問でもされてきなさい」
「えええ。痛いのやだ」
ギリシャの答えに日本は激高する。持病の高血圧は敗戦間近の今、ますます悪化しているようだった。
「国のくせにだらしない! 戦において痛い目を見るのは我々の義務です」
そういうと日本は壁に備え付けられた実に懐かしい形式の電話の受話器を手に握りしめ、交換手になにやら叫びはじめた。すかさず電話の受話器を日本の手からひったくって叩き切り、説得を試みる。そんな妙な所に連れて行かれてはたまらない。
「実は……俺は未来から来たんだ。2007年の世界がどんな風になっているか、ちょっと聞きたくならないか?」
……何なんだこいつは。
日本はシミだらけの天井を仰いだ。灯火規制のために厚紙を被せられた裸電球がぽつんとぶら下がっている。
先ほどまでの緊張感は嘘のようにかき消え、狙い澄ましたように蝉の鳴き声がうるさく響き始めた。
自称(?)ギリシャこと未来からの旅人は軍服のジャケットを片袖だけ下ろすと、肩に残る銃痕に指をつっこんで弾をほじくり出し始める。見る間に傷口が癒え始めるあたり、やはり彼は自分と同じような非常識な存在ではあるようだった。