代用煙草と白昼夢。
「……脳病院の独房にご案内したほうがいいですかね。そこで壁に向かっていくらでも未来の話をどうぞ」
「そう言わずに、何でも聞いてくれ。……ほら、勝ったとか負けたとかそういうのなら」
「間に合ってますっ!」
日本はそう叫ぶと先ほどまで食い入るように見つめていた書類をギリシャの顔に叩きつけた。
そこには一般国民向けの大本営発表とは真逆の内容が記されている。全ての数字が日本軍の無惨な敗北を示していた。勇退だとか戦略的撤退だとかおためごかしの単語はどこにもない。
「いだだだ」
「その紙切れが私の死亡通知です。私どもの軍はレイテ沖海戦において大敗北を喫し、前線は崩壊しました。玉砕しました。全滅しました。制空権も制海権も大半を失い、我が日本国はもはや裸同然です」
そこまで一気にまくしたてると、日本はギリシャに突きつけていた銃をうろんな目で見た。今更こんなものが何の役に立つというのだ。
座り込み、銃を床に置いた。ひどく疲れていた。あと数週間でこの身を焼き払われるというのに、何故こんな変な奴の相手までさせられるのか。
「……電話しないのか?」
心配そうに顔をのぞき込んでくる男に苛立つ。
「別に……もうどうでもいいので。あなた一人捕まえたところで事態が好転するとも思えませんし。……あーあ、オランダさんをシメたあたりで停戦交渉してればこんなことには……あの泣きっツラについ興奮して」
「はい」
ギリシャが小さな文鎮のようなものを手渡してくる。受けとった日本はそれに目を見張った。
「?……これは何ですか」
受け取ったものに日本は目を見張った。薄い樹脂と金属で成形されたそれは、見たこともないほど高度な技術で作られた小さな機械製品だった。
「携帯電話。……さすがにこの時代では無理か」
よく考えたら電波来てないな、というギリシャの言葉が聞こえないほど、日本は戦慄していた。
長方形の小さな画面には最新鋭のテレヴィジョンなどとは比較にならない、印刷物より精緻な画像が発光しながら表示されている。明らかにこの時代には存在しない技術で作られたものだ。
画面の端に表示されている数列の、2007/08/15という数字が2007年8月15日の事を指しているとしたら──。
頭の中で大きな鼓動が響きはじめ、冷たい汗が胸元を伝うのを感じた。彼は狂人ではなく、本当の事を言っているのかもしれない。
床に置いたままの銃を手元に引き寄せると、なるべく冷静に見えるように呼吸を整えた。今にも声が裏返りそうだ。
「脱ぎなさい」
再び血走った目で自分に銃を突きつけはじめた日本に、ギリシャは戸惑い顔を見せた。
「……捕虜への性的虐待はジュネーヴ条約違反じゃないか?」
「違うっ! 誰が貴方なんかと」
そんなことしなくても脱ぐのに、とぶつぶつ呟きながらジャケットを脱いで渡し、続いて下まで脱ごうとしたら「そっちは結構」と止められた。
どうもお目当ては中身より外の皮部分のようだ。日本は奪い取ったジャケットをひっくり返して中身の財布やらタバコを取り出す。財布の中身をまず改めると、ユーロ紙幣を見て疑問いっぱいの顔になった。何枚かの紙幣に記された発行年度を見てさらに驚き、そして疲れ切った声で尋ねる。
「これはどこの国の通貨ですか?」
「ん。……予言者の言葉を聞く気になったら教えよう」
日本は手にしたユーロ紙幣を握りしめたまま、また座り込んだ。
彼の理性は戦っていた。こんなことが現実に起こる訳はない。だが、この見たこともない紙幣の印刷品質、表記された数字、そして謎の機械製品の存在はその確信を揺らがせるのに十分だった。
目の前の変な男の狂った言葉を信じる気には到底なれなかったが、彼の持ち物はあきらかにオーバーテクノロジーの産物だ。
「納得した?」
「そりゃあ……私たちいい加減な存在だとは思ってましたけど、こんな簡単に時間旅行とかされたら少し困るってもんですよ。ちょっとは遠慮とか自粛とかしてくださいよ。ほんとに」
日本は部屋の奥に這うようにして戻ると、文机の上に置かれた煙草入れから紙巻きを一本取り出し、震える指で火を灯した。少しでも落ち着きたい、と全身で訴えている。
「……俺にもくれる?」
図々しく煙草をねだってきたギリシャに日本は「ご自分のをどうぞ。これはイタドリで作った代用品です」と返事する。
そして眉間に皺を寄せたまま、深々と煙を吸い込んだ。ギリシャの知る限り、彼に喫煙の習慣はない。いつも、寝煙草を咎められるばかりだった。
煙草をくわえたまま、紫煙をくゆらせる日本の口元に顔を寄せる。煙草の先端同士を触れ合わせて、火をもらった。
「──なっ……」
落ち着こうと思ってくわえた煙草を口元から落とし、日本は激しく噎せ返る。
突然何をするんだこの男は同性愛なのか。地中海付近はそういう輩が多いと聞いたことがあるが、尋問している相手に突然こんな真似をする奴がどこにいる。
睨み付けると、邪気のない顔で微笑まれた。それでまた気が抜ける。怒る気力も奪い去られた。よく見ると大した色男ではある。これが平時で女が相手であったならばいくらでも心の秘密をぶちまけてもらえるはずだ。
さぞ豊かで平和な時代から来たのだろう。煙草も酒も飯もうまい物をたらふくやってるに違いない。道理で健康的で美しい姿をしている!
「……髪つやつやですね。肌ぴっかぴかですね。肉付きも素晴らしいですね」
憎ったらしい、と毒づく日本にギリシャは自分の煙草を勧めてきた。一本奪い取って火をつけて、肺いっぱいに毒の煙を吸い込む。
体中に満ちてくるいがらっぽい安堵感に、さらに落ち込みが深まる。なぜこんなものすら自由に吸えない懐具合で戦いを継続してしまったのだろう。本当に馬鹿だ。
「うまい」と一言呟いたなり膝を抱えて動かなくなった日本にギリシャはまた話しかけてきた。
「荒んでるね」
「……日本史上初の完全敗北決定ニュースをいただいた所なので。あと数ヶ月以内に、国土は焼かれ男は殺され女子供は奴隷にされ、私は公開銃殺……されたところでどうせ死なないから消えるまで自由の女神像の下で何年もさらし者にされるでしょうよ。ここはアメリカ合衆国ジャップ州になって我が国民は変な英語モドキの言語を独自に開発して話すようになり、永遠に世界の負け組として嘲笑され続けるのでしょう。目に浮かぶようです」
それを聞いたギリシャは深々とため息をつき、やがて口を開いた。
「……何か話をしようか。時間旅行者らしく、希望が持てる話でも」
「じゃあお願いします。……なるべくネタバレにならない範囲で。だから私の話は私が質問するまでしないでほしい。うまく楽しませてくれたら憲兵隊に引き渡すのは勘弁してあげます」
気前いいでしょう、と諦めたように笑う彼を見ているのは辛かった。目が覚めれば何も残さず消えてしまう幻だとしても。ギリシャの夢の中にしかいない日本だとしても。
「えっと……じゃあ、1969年にアメリカが月への有人飛行を成功させた。人類初の快挙だ」
「そう……ですか。アメリカさんが……ね……フフフ」