マリアの慈悲
ドイツの思うところによれば、兄は働き者だ。
昼夜問わずの行軍は言うに及ばず、総司令部の作戦研究に顔を出すのも日日命
令の文面作成も面倒がった姿を見たことがない。その命令内容が非常に簡潔で
短くあるのはプロイセン自身が最前線の戦闘司令所でいちいち雑多で細かな指
示を受けるのを好まないからだろう。
とにかく、プロイセンは働き者なのだ。
東部でうっかり利き腕と腹部と左大腿を負傷して後方へ回された今でさえ、規
定の管理業務にプラスアルファの仕事を見つけてきてしまうくらいには。
「何をしてるんだ、兄さん」
プロイセンの治療経過を伺いにきたドイツは直前まで用意していた「兄のプラ
イドを傷つけない労わりの言葉」をぼろりと落として無に帰しながら、見舞い
客らしからぬ第一声をあげた。
「おールッツ!元気だったか!」
「俺は問題ない。怪我を負ったのは貴方だ」
「ははは、すまん」
全く悪びれない様子のプロイセンは下手打ったぜとドイツの心配をカラリと笑
い飛ばす。その手には二冊ほどの古めかしい本があり、驚いたことに一冊は
仰々しい装飾の聖書だ。
「で、何をしてるんだ。寝てなくていいのか」
「ばっか、このくらいで寝てられるかよ。つっても前線には配置してもらえ
ねぇし、ここの仕事もつまんねぇし暇だからさ、ちょっとアルバイトだ」
「は?」
「ここの近くに住んでるガキがいてさ。まぁこんな辺鄙な所じゃ学校も行け
ないからって家庭教師を探してたらしいんだよ」
「それで何故兄さんの名が上がるんだ」
「収容所の所長の子供だ」
そこだけプロイセンは声のトーンを落とした。ドイツはあえて気付かぬ振りで、
ああなるほどと応えた。軍つながりでそんな噂を聞いて子育て成功者と名を
上げられる血が疼いたのだろう。
「これから向かうのか?」
「おう。月曜と水曜と金曜、週に3日通ってんだ」
「それで聖書が?」
「これも教える。後は歴史と数学をざっとやらせてるとこだ」
プロイセンが抱えるもう一冊はドイツの概略史らしかった。それらを褪せてと
ころどころ皹われた革の鞄に詰めようとするので、片腕を吊ったいかにもやり
にくそうな兄からドイツは本を取り上げる。意図を察したプロイセンもすぐに
場所を譲り、あれも、と本棚の一角を指差した。
ベルリンから一家揃って引っ越してきたという所長の家は重々しい堅固な灰色
の建物で、真っ赤な旗が扉の上に掲げられていた。
高い柵で囲まれた家は大きく庭も広いが、小銃を携えた警備兵が点々としてい
る中では大した慰めにもならないと思われた。旗のひらめく玄関の前に立つと
プロイセンがノブに手をかける前に、勢いよく扉が内側から開かれた。
飛び出してきたのは半ズボンをこげ茶のサスペンダーで吊った少年だ。
「げっ」
「よぉ、そんな急いでどこ行くんだ?」
「えーと……ちょっとオルトの散歩に……」
「これから授業なのに犬の散歩とはペット思いだなぁ?」
逃亡に失敗した少年はちぇっと口を尖らせて素直に不満を表した。
「玄関先で何やってるの。あら先生、いらっしゃい」
亜麻色の髪をアップにまとめた夫人が少年の肩を後ろから抱いて、中へと促し
た。ドイツは軍人であることはあえて口にはせず、ギルベルトの弟とだけ自己
紹介をして名乗った。
殺伐とした外観に反し、内装の調度品はとてもトラディショナルな、充分に金
をかけたものばかりだった。ベルリンから運んだと思われる品々はドイツには
一目で分かるアンティークの名品が多い。
リビングを横目に角を丸めた手すりのついた階段へ向かう。
「お兄さんも先生なの?」
「え?」
「それともやっぱり軍人?お兄さん強そうだもんね」
「いや、俺は」
「こいつも教師だぜ。俺様と同じ」
二階へあがりながら少年はウソだぁと笑い声を踊り場に響かせる。
「何で嘘だよ」
「だってギルベルトはさ、何だか弱そうだから分かるけど、こっちのお兄さん
はとっても立派で軍人みたいだ!」
「弱そうとは何だ弱そうとは」
少年は授業から逃げ出そうとしていたとは思えない楽しそうな足取りで二階の
自室のドアをがちゃりと開けた。逃げようとしたのも部屋の窓からプロイセン
が見えて、わざと鉢合わせるようにしたのだろう。
懐いているものだなとドイツは内心舌を巻く。
「じゃあ今日はお兄さんが教えてくれるの?」
「いいや俺は見学だ。いつも通りにしてくれるとありがたい」
「おら、座れ座れ。今日も歴史からだな」
「前の続きだね」
「覚えてるか?」
「もちろん!リーグニッツで勝ったところ!」
少年が口にしたのはプロイセンの十八番たる武勇伝の一部分で、ドイツは思わ
ず呆れた目で兄さん、とため息をついたが、歴史的事実だろと嘯かれてはぐぅ
の音も出ないのだった。
休息なさったら、と顔をのぞかせた婦人の手元の、マイセン窯のティーセット
と粗い砂糖の降りかかったサブレの誘惑に抗えず、歓声をあげてまず少年が
鉛筆を放り出す。手早く机の上を片付けようとした少年に、プロイセンは「ど
うせなら外で食おうぜ」と小さな雲の一つ二つ浮かぶだけの青空を指し示した。
白いテーブルに並べられたサブレはバニラがふんだんに香り、紅茶にはたっぷ
りのミルクが添えられた。
ひとしきり食べて、手を落ち着かせた頃、少年はねぇ先生とついでのように呼
びかけた。
「あっちの森の向こう側に学校があるんだよ」
知ってた?と屋敷の裏手を指差す。
「大人もいるんだ。みんなおそろいの制服を着てるの」
青と白の縞々の。
くるんと丸い瞳が兄弟を交互に見上げた。顔をこわばらせたのはドイツだけで、
プロイセンの表情は変わらない。それに気付いて、ドイツもすぐに繕った。
僕はさ、ベルリンのみんなとお別れして学校にも行けないっていうのに、あそ
こじゃ大人も子供も一緒にいるんだよ、たくさんで。ずるいよね。僕の知って
るベルリンの学校とはちょっと違うみたいだけど、昨日はみんなで丸太の家を
作ってたんだ。
本当に拗ねた調子で頬を膨らませる少年は僕も一緒に遊びたい、と続けた。
アイロンのあてられた折り目正しいズボンをはいて、ハウスメイドの焼いたサ
ブレを食べながら。
「明日はボールを持って行ってみようかな」
そしたら、僕もいれてくれるかな、とプロイセンを見上げる横顔は今のドイツ
にとって、世界を隅々探したってこれ以上は見付からないというほどの罰で
あるのかもしれなかった。
けれど、それを罰だと思うことを、他でもない、ドイツだけは許されてはいな
いのだ。少なくとも今はまだ。
何を求めてか自分でも分からないままに、ドイツの視線は少しずれて自分とは
似て非なる兄を映す。きっとそれをしてくれるのはプロイセンだ。
ドイツの代わりに矛盾と無力に嘆き憤り、達観の仮面の下でドイツの代わりに
許しを請う。あるいはその顔も知らぬ神に慈悲を請うのかもしれなかった。
いつかくる終わりの日の許しを。未来の慈悲を。
ドイツの代わりに、ドイツのために。
昼夜問わずの行軍は言うに及ばず、総司令部の作戦研究に顔を出すのも日日命
令の文面作成も面倒がった姿を見たことがない。その命令内容が非常に簡潔で
短くあるのはプロイセン自身が最前線の戦闘司令所でいちいち雑多で細かな指
示を受けるのを好まないからだろう。
とにかく、プロイセンは働き者なのだ。
東部でうっかり利き腕と腹部と左大腿を負傷して後方へ回された今でさえ、規
定の管理業務にプラスアルファの仕事を見つけてきてしまうくらいには。
「何をしてるんだ、兄さん」
プロイセンの治療経過を伺いにきたドイツは直前まで用意していた「兄のプラ
イドを傷つけない労わりの言葉」をぼろりと落として無に帰しながら、見舞い
客らしからぬ第一声をあげた。
「おールッツ!元気だったか!」
「俺は問題ない。怪我を負ったのは貴方だ」
「ははは、すまん」
全く悪びれない様子のプロイセンは下手打ったぜとドイツの心配をカラリと笑
い飛ばす。その手には二冊ほどの古めかしい本があり、驚いたことに一冊は
仰々しい装飾の聖書だ。
「で、何をしてるんだ。寝てなくていいのか」
「ばっか、このくらいで寝てられるかよ。つっても前線には配置してもらえ
ねぇし、ここの仕事もつまんねぇし暇だからさ、ちょっとアルバイトだ」
「は?」
「ここの近くに住んでるガキがいてさ。まぁこんな辺鄙な所じゃ学校も行け
ないからって家庭教師を探してたらしいんだよ」
「それで何故兄さんの名が上がるんだ」
「収容所の所長の子供だ」
そこだけプロイセンは声のトーンを落とした。ドイツはあえて気付かぬ振りで、
ああなるほどと応えた。軍つながりでそんな噂を聞いて子育て成功者と名を
上げられる血が疼いたのだろう。
「これから向かうのか?」
「おう。月曜と水曜と金曜、週に3日通ってんだ」
「それで聖書が?」
「これも教える。後は歴史と数学をざっとやらせてるとこだ」
プロイセンが抱えるもう一冊はドイツの概略史らしかった。それらを褪せてと
ころどころ皹われた革の鞄に詰めようとするので、片腕を吊ったいかにもやり
にくそうな兄からドイツは本を取り上げる。意図を察したプロイセンもすぐに
場所を譲り、あれも、と本棚の一角を指差した。
ベルリンから一家揃って引っ越してきたという所長の家は重々しい堅固な灰色
の建物で、真っ赤な旗が扉の上に掲げられていた。
高い柵で囲まれた家は大きく庭も広いが、小銃を携えた警備兵が点々としてい
る中では大した慰めにもならないと思われた。旗のひらめく玄関の前に立つと
プロイセンがノブに手をかける前に、勢いよく扉が内側から開かれた。
飛び出してきたのは半ズボンをこげ茶のサスペンダーで吊った少年だ。
「げっ」
「よぉ、そんな急いでどこ行くんだ?」
「えーと……ちょっとオルトの散歩に……」
「これから授業なのに犬の散歩とはペット思いだなぁ?」
逃亡に失敗した少年はちぇっと口を尖らせて素直に不満を表した。
「玄関先で何やってるの。あら先生、いらっしゃい」
亜麻色の髪をアップにまとめた夫人が少年の肩を後ろから抱いて、中へと促し
た。ドイツは軍人であることはあえて口にはせず、ギルベルトの弟とだけ自己
紹介をして名乗った。
殺伐とした外観に反し、内装の調度品はとてもトラディショナルな、充分に金
をかけたものばかりだった。ベルリンから運んだと思われる品々はドイツには
一目で分かるアンティークの名品が多い。
リビングを横目に角を丸めた手すりのついた階段へ向かう。
「お兄さんも先生なの?」
「え?」
「それともやっぱり軍人?お兄さん強そうだもんね」
「いや、俺は」
「こいつも教師だぜ。俺様と同じ」
二階へあがりながら少年はウソだぁと笑い声を踊り場に響かせる。
「何で嘘だよ」
「だってギルベルトはさ、何だか弱そうだから分かるけど、こっちのお兄さん
はとっても立派で軍人みたいだ!」
「弱そうとは何だ弱そうとは」
少年は授業から逃げ出そうとしていたとは思えない楽しそうな足取りで二階の
自室のドアをがちゃりと開けた。逃げようとしたのも部屋の窓からプロイセン
が見えて、わざと鉢合わせるようにしたのだろう。
懐いているものだなとドイツは内心舌を巻く。
「じゃあ今日はお兄さんが教えてくれるの?」
「いいや俺は見学だ。いつも通りにしてくれるとありがたい」
「おら、座れ座れ。今日も歴史からだな」
「前の続きだね」
「覚えてるか?」
「もちろん!リーグニッツで勝ったところ!」
少年が口にしたのはプロイセンの十八番たる武勇伝の一部分で、ドイツは思わ
ず呆れた目で兄さん、とため息をついたが、歴史的事実だろと嘯かれてはぐぅ
の音も出ないのだった。
休息なさったら、と顔をのぞかせた婦人の手元の、マイセン窯のティーセット
と粗い砂糖の降りかかったサブレの誘惑に抗えず、歓声をあげてまず少年が
鉛筆を放り出す。手早く机の上を片付けようとした少年に、プロイセンは「ど
うせなら外で食おうぜ」と小さな雲の一つ二つ浮かぶだけの青空を指し示した。
白いテーブルに並べられたサブレはバニラがふんだんに香り、紅茶にはたっぷ
りのミルクが添えられた。
ひとしきり食べて、手を落ち着かせた頃、少年はねぇ先生とついでのように呼
びかけた。
「あっちの森の向こう側に学校があるんだよ」
知ってた?と屋敷の裏手を指差す。
「大人もいるんだ。みんなおそろいの制服を着てるの」
青と白の縞々の。
くるんと丸い瞳が兄弟を交互に見上げた。顔をこわばらせたのはドイツだけで、
プロイセンの表情は変わらない。それに気付いて、ドイツもすぐに繕った。
僕はさ、ベルリンのみんなとお別れして学校にも行けないっていうのに、あそ
こじゃ大人も子供も一緒にいるんだよ、たくさんで。ずるいよね。僕の知って
るベルリンの学校とはちょっと違うみたいだけど、昨日はみんなで丸太の家を
作ってたんだ。
本当に拗ねた調子で頬を膨らませる少年は僕も一緒に遊びたい、と続けた。
アイロンのあてられた折り目正しいズボンをはいて、ハウスメイドの焼いたサ
ブレを食べながら。
「明日はボールを持って行ってみようかな」
そしたら、僕もいれてくれるかな、とプロイセンを見上げる横顔は今のドイツ
にとって、世界を隅々探したってこれ以上は見付からないというほどの罰で
あるのかもしれなかった。
けれど、それを罰だと思うことを、他でもない、ドイツだけは許されてはいな
いのだ。少なくとも今はまだ。
何を求めてか自分でも分からないままに、ドイツの視線は少しずれて自分とは
似て非なる兄を映す。きっとそれをしてくれるのはプロイセンだ。
ドイツの代わりに矛盾と無力に嘆き憤り、達観の仮面の下でドイツの代わりに
許しを請う。あるいはその顔も知らぬ神に慈悲を請うのかもしれなかった。
いつかくる終わりの日の許しを。未来の慈悲を。
ドイツの代わりに、ドイツのために。