オレンジ色の楽園
焦っていたんだと思う。あいつが他の奴と話して笑っているのを見る度に、拳を握り締めて、手のひらに爪を突き立てていた。それはいつも無意識に始まって、ようやく自分で気付いて手を広げると、そこには赤い傷跡。
余裕無くなってきてるなあ、俺。
いつだって俺はそれを、どこか遠い、他人事みたいな思考で考えていた。だって俺にはそれ以上、何かをする勇気なんてなかったから。俺に気付いて名前を呼びながら駆け寄る帝人を、失うかもしれない。そんなリスク、背負えやしなかったから。
なのに、この状況は何だ。
目の前には壁に押し付けられた帝人がいて、その右手を掴んで押さえ付けているのは俺の左手。
少し怯えたような、そして不思議そうな色を滲ませる黒い瞳を捉えながら、ああ、ついにやってしまったんだなと思う。
ここまま手を放して、ふざけた様に笑えば、この時間は無かったことになるんだろうか。そんな考えが頭を過ぎったけれど、それとは正反対に左手からはじわじわと体温が伝わって、まるで麻痺してしまったように言う事を聞かない。分離した思考と行動。どうすればいい。
「―――帝人、」
口から漏れた名前は酷く熱を持ち、びくりと帝人の身体が強張る。
俺はこんなことをしたかったんだっけ、帝人にこんな表情をさせたかったんだっけ、そう何度も自分に問うけれど、その答えを知るより早く、思考よりも本能的で正直な身体が行動を起こす。
「正、」
呼ばれかけた名前を遮って重ねた唇は、痛い程に、苦しい程に、熱くて柔らかくて、涙が滲んだ。
ああ、俺はずっとこうしたかったんだと、今更のように思い知らされた。
不意に、肩に何かが触れる。動きからして帝人の左手だろうと、目を閉じたまま思う。目を開ける勇気なんて無かった、もしそこに震える瞼を、もしくは見開いたままの怯えた瞳を見つけてしまうのが怖かった。
右肩に掛けられた手は、力無く制服の布地を掴む。
馬鹿な奴、突き飛ばすなりすればいいのに。
拒絶してくれれば、止めてやれたかもしれないのに。
「っ……正、臣、」
唇を離した、その途端に襲う喪失感。愕然とした。
やはり、触れてはいけなかったのだ。一度知ってしまった、唇を重ねるという行為によって生まれるあの満たされていく感覚は、俺の脳に、唇に焼き付いて、二度目を欲してやまない。あまりにも欲に忠実な身体に、吐き気がした。
呼ばれた名前は細く、微かに震えていた。
怖い。
その声を聴いた瞬間、怖くてたまらなくなった。
拒絶される。帝人に、拒絶される。
それは一度描いてしまえば消えなくなってしまう妄想で。手が震えた。怖い。怖い。
けれど、恐る恐る目を開いた、その先にあったのは、俺が予想していた、怯えや嫌悪というような表情ではなかった。
「何、してるの?」
あるのはただ純粋な、真っ直ぐな瞳。けれど俺にはそれさえ、いや、それこそが、全てを見透かされてしまうようで、怖くて。
「……わかんねえ」
本当に、何をしているんだろう、俺は。
「俺にもわかんねえよ、帝人」
それ以上、帝人の瞳を見ていることなんてできなかった。
目を伏せて俯いた。その視線から逃げた。
なのにこの身体は、帝人の体温を欲して、求めて騒ぐ。
俺は、どうしたらいいんだろう。どう、したいんだろう。
わからない、わからないんだ。
「ぁ………、」
ふと、首筋に温かいものが触れる。それはそのまま頬へと伝って、そこからまた、じわりじわりと熱が滲む。触れられた瞬間の熱さに、息を飲んだ。
「正臣、」
その声はまるで母親が子供に掛けるような、ゆっくりと優しく、何かを言い聞かせる時のような。
顔を上げて、そう言われたような気がして、ゆるゆると視線を上げる。視界が滲んでいないことに安心した。ちゃんと鮮明に見えた帝人の顔、瞳は揺れてて、今にも泣き出すんじゃないかと思った。
なんで、お前がそんな顔するんだよ。
「―――、」
ふとそこに、ひどい顔をした一人の男が映っているのに気が付いた。
「―――は、」
思わず笑い声が漏れた。酷過ぎる、情けない顔。格好悪、泣きそうじゃん、俺。
「なんでさ……抵抗とかしねえの帝人」
馬鹿だろ。どうしてそんな顔してんだよ。
今俺が何したかわかってんの?
いきなり壁に押し付けて無理矢理キスなんてした男に、そんな、
ガキの頃、怪我した俺を心配してくれた時とまるで同じ、泣きそうな顔を。
頼むから、止めてくれよ。期待なんてさせないでくれ。
「なんで……、」
目の前の、僅かに自分よりも低い肩に、額をぶつける。ずるずるとずり落ちた両手は帝人の両肩を掴み、その、手の平に収まってしまう程の細さに、俺は慌てて力を緩めた。
「……正臣?」
「俺はさ、帝人」
言えなかった、言葉を。
今なら、伝えられるだろうか。
余裕無くなってきてるなあ、俺。
いつだって俺はそれを、どこか遠い、他人事みたいな思考で考えていた。だって俺にはそれ以上、何かをする勇気なんてなかったから。俺に気付いて名前を呼びながら駆け寄る帝人を、失うかもしれない。そんなリスク、背負えやしなかったから。
なのに、この状況は何だ。
目の前には壁に押し付けられた帝人がいて、その右手を掴んで押さえ付けているのは俺の左手。
少し怯えたような、そして不思議そうな色を滲ませる黒い瞳を捉えながら、ああ、ついにやってしまったんだなと思う。
ここまま手を放して、ふざけた様に笑えば、この時間は無かったことになるんだろうか。そんな考えが頭を過ぎったけれど、それとは正反対に左手からはじわじわと体温が伝わって、まるで麻痺してしまったように言う事を聞かない。分離した思考と行動。どうすればいい。
「―――帝人、」
口から漏れた名前は酷く熱を持ち、びくりと帝人の身体が強張る。
俺はこんなことをしたかったんだっけ、帝人にこんな表情をさせたかったんだっけ、そう何度も自分に問うけれど、その答えを知るより早く、思考よりも本能的で正直な身体が行動を起こす。
「正、」
呼ばれかけた名前を遮って重ねた唇は、痛い程に、苦しい程に、熱くて柔らかくて、涙が滲んだ。
ああ、俺はずっとこうしたかったんだと、今更のように思い知らされた。
不意に、肩に何かが触れる。動きからして帝人の左手だろうと、目を閉じたまま思う。目を開ける勇気なんて無かった、もしそこに震える瞼を、もしくは見開いたままの怯えた瞳を見つけてしまうのが怖かった。
右肩に掛けられた手は、力無く制服の布地を掴む。
馬鹿な奴、突き飛ばすなりすればいいのに。
拒絶してくれれば、止めてやれたかもしれないのに。
「っ……正、臣、」
唇を離した、その途端に襲う喪失感。愕然とした。
やはり、触れてはいけなかったのだ。一度知ってしまった、唇を重ねるという行為によって生まれるあの満たされていく感覚は、俺の脳に、唇に焼き付いて、二度目を欲してやまない。あまりにも欲に忠実な身体に、吐き気がした。
呼ばれた名前は細く、微かに震えていた。
怖い。
その声を聴いた瞬間、怖くてたまらなくなった。
拒絶される。帝人に、拒絶される。
それは一度描いてしまえば消えなくなってしまう妄想で。手が震えた。怖い。怖い。
けれど、恐る恐る目を開いた、その先にあったのは、俺が予想していた、怯えや嫌悪というような表情ではなかった。
「何、してるの?」
あるのはただ純粋な、真っ直ぐな瞳。けれど俺にはそれさえ、いや、それこそが、全てを見透かされてしまうようで、怖くて。
「……わかんねえ」
本当に、何をしているんだろう、俺は。
「俺にもわかんねえよ、帝人」
それ以上、帝人の瞳を見ていることなんてできなかった。
目を伏せて俯いた。その視線から逃げた。
なのにこの身体は、帝人の体温を欲して、求めて騒ぐ。
俺は、どうしたらいいんだろう。どう、したいんだろう。
わからない、わからないんだ。
「ぁ………、」
ふと、首筋に温かいものが触れる。それはそのまま頬へと伝って、そこからまた、じわりじわりと熱が滲む。触れられた瞬間の熱さに、息を飲んだ。
「正臣、」
その声はまるで母親が子供に掛けるような、ゆっくりと優しく、何かを言い聞かせる時のような。
顔を上げて、そう言われたような気がして、ゆるゆると視線を上げる。視界が滲んでいないことに安心した。ちゃんと鮮明に見えた帝人の顔、瞳は揺れてて、今にも泣き出すんじゃないかと思った。
なんで、お前がそんな顔するんだよ。
「―――、」
ふとそこに、ひどい顔をした一人の男が映っているのに気が付いた。
「―――は、」
思わず笑い声が漏れた。酷過ぎる、情けない顔。格好悪、泣きそうじゃん、俺。
「なんでさ……抵抗とかしねえの帝人」
馬鹿だろ。どうしてそんな顔してんだよ。
今俺が何したかわかってんの?
いきなり壁に押し付けて無理矢理キスなんてした男に、そんな、
ガキの頃、怪我した俺を心配してくれた時とまるで同じ、泣きそうな顔を。
頼むから、止めてくれよ。期待なんてさせないでくれ。
「なんで……、」
目の前の、僅かに自分よりも低い肩に、額をぶつける。ずるずるとずり落ちた両手は帝人の両肩を掴み、その、手の平に収まってしまう程の細さに、俺は慌てて力を緩めた。
「……正臣?」
「俺はさ、帝人」
言えなかった、言葉を。
今なら、伝えられるだろうか。