デュラ×ペイン
ピリリと軽快な音をたてる携帯の目覚ましを止めて、色褪せた畳の上に敷かれた布団から起き上がる。
携帯の時計で時間を確認し、流しで洗面を終えると、朝食のゼリー飲料を飲み下す。
朝はそれほど食欲旺盛なわけでもない僕にとって、調理の手間もいらない携帯食は、朝食として小腹に収めるのにちょうどいい。
学校指定の制服を着こんで、ネクタイを締め、通学用のカバンを肩にかけると、アパートを出る。
金目のものなど何もないが、一応は鍵を閉め、ボロいアパートの階段を下った。
季節はもう春だ。
僕がこの街に来て、二度目の春がきた。
一年前、友人の正臣に誘われた僕は、両親の反対を押し切って、東京の池袋にある私立の来良学園に進学した。
埼玉の奥地から、憧れの大都会、東京に引っ越してきた。
あれから一年がたったが、僕はこの騒がしい街で、あくまで傍観者として、この街の非日常を垣間見ながら、平凡な毎日を送っている。
今では名前で呼ぶようになった幼馴染の紀田正臣と、学級委員になったことを切欠に親しくなったクラスメイトの園原杏里と共に、平凡だが楽しい学生生活を送っていた。
「……世は全てこともなし」
何も憂えることのない穏やかな朝のひととき。
僕は春の柔らかな陽光を浴びながら、学校へ向かう。
なんとなく見上げた空は、とても優しい青に澄んでいて、心なしか吸いこむ空気まで綺麗な気がする。
人に何も語ることの無い、退屈な日常に愛想をつかして、僕は田舎から都会へでてきたはずだった。
だがこうして感じる穏やかな春の香りは、不思議と心地よい。
今日から新しい学年が始まる。
僕は2年生になり、新たに1年生が入学してくる。
先輩になり、後輩ができる。
平穏な日常に、新たな波を起こすかもしれない新しい出会いの予感に、胸は高鳴り、僅かに高揚する。
きっと期待するほど驚くような出会いは無いのだろう。
それでも新しい者と出会うかもしれない予感は、それだけで胸を弾ませた。
「みっかどー!今年は同じクラスだな!!」
「うわっ!正臣!!びっくりするなあ、もう」
掲示板で確認した自分の教室に入り、席についてしばらくすると、背後から勢いよく飛びつかれた。
顔を見なくても明るい声を聞くだけでわかる親友に、驚かすなと文句を言うと、何時の間にか、そばに立っていた園原杏里がはにかんだ。
「また、3人一緒ですね」
「うん、また同じクラスだね……ん?あれ?園原さんとは、また同じクラスだけど、正臣は去年は隣のクラスだったよね?」
「あ、そ、そうですね!紀田君とは、今年からでした!!あの、いつも一緒にいたので、ちょっと間違えちゃいました。すいません!」
杏里の言葉に自然に頷いてから、違うことを指摘すると、杏里は焦ったように謝る。
「いやいや、そんな謝らないで!たしかに正臣ってば休み時間とか、平気で人のクラスに、だらだら居座ってたから、勘違いしちゃってもしょうがないってゆーか、全部正臣のせいだから!」
全ては我が物顔で他所のクラスに出入りする正臣の責任だと帝人が言うと、正臣は不満そうにふくれる。
「おいおい、居座ったってなんだ!俺は、お前らに楽しい話題とスマイルを提供しに、わざわざ出張してやってたんだぞ!!キャー!正臣君ステキー!!と歓声を送って感謝されてもいいぐらいだ!」
「誰も頼んでいないのに、今までご苦労様だったね。これからは同じクラスになるわけだけど、そんなに気を使わなくていいよ。いや、むしろ僕らに気を使って、大人しくしていてもらおうか?」
「なっ……俺からアイデンティティを奪おうとは、お前は悪魔か!!まったく、もう高校2年生になるというのに、中学生にしか見えない童顔のくせして辛辣過ぎるぞ!!」
「正臣?僕も怒るときは怒るんだからね?」
仲のいい紀田正臣と園原杏里と、運のいいことに同じクラスになり、帝人の2年目の学園生活は幸先のいいスタートをきったように思えた。
始業式も何事もなく無事に終わり、昼前には解散の運びになる。
「あー、終わった、終わった!な、昼飯くってこーぜ!!」
「ああ、うん、園原さんも、一緒にどう?」
「はい、ご一緒します」
何時もの面子で連れ立って、帝人たちはランチに向かう。
すると非常に目立つ金髪の長身が視界に映る
人混みのなかにあっても、紛れることのない存在感。
脱色したうえに染めたのだろう見事な金色の髪にサングラス、まるで制服のように何時も通りのバーテンダーの服装は、見間違えようもなく平和島静雄だった。
ふと視線が合ったと思ったら、静雄は落ち着いた足取りで、こちらに寄ってくる。
「よお、お前ら、今、帰りか?」
「あ、はい、今日は始業式だったんで、午前だけなんです。静雄さんはお仕事ですか?」
何時も静雄と一緒に行動しているドレッドヘアの男、田中トムの姿を探して周囲に視線を動かすが、彼の姿は見えない。
「あー……いや、今日はオフだ」
「そう、なんですか」
この人は仕事が休みでもバーテンダーの服装のままなのかと、すこしばかり面白く思いながらも笑いは噛み殺す。
平和島静雄をキレさせるのはヤバイ。
下手をしたら殺される。
彼の機嫌を損ねるような真似は極力避けるべきだ。
「お前ら、これからメシだろ?」
「あ、はい」
「なら、一緒に食おうぜ」
優しく微笑みながら食事に誘われたので、どうしようと、正臣と杏里の顔を見ると、彼らも、どうしようかと顔を見合わせていた。
過ぎる沈黙の間に、静雄の眉がかすかに寄せられ、彼の機嫌が下降していくのが、帝人にも察せられて焦る。
「別に、いっすけど……」
まるで臆したように黙ったままの帝人や杏里を代表して、正臣が静雄に了承の返事を返した。
「なら、行くぞ」
さっと踵を返す静雄の後を、まるで親を追う雛のようにぞろぞろとついていくと、連れられていった先は、お馴染みの黒人、サイモンが客引きをする、露西亜寿司の前だった。
露西亜寿司は、職人が明らかに外国の人だったり、その名称から、いささか胡散臭さを漂わせている。
そのうえ少しばかり独特のメニューをそろえていて、ちょっと変わった変わり寿司が売りだったりするのだが、実はなかなか本格的な美味い寿司屋である。
たとえランチメニューを選んだとしても、一人暮らしの貧乏学生の帝人にしてみれば、かなり贅沢と言える金額になってしまう。
少しばかり財布の中身の心配しながら暖簾をくぐって、座敷の席についた。
先に店内に入った静雄と正臣が、さっさと向かい合わせで座ってしまったので、自分はどこに座ろうかと思ったら、杏里が正臣の隣に座る。
最後尾の帝人は空いている静雄の隣に座ることになった。
何かと話題になる池袋最強の男の隣に座るのは、少しばかり緊張する。
席に着くとおしぼりで手を拭いて、メニューを見た。
最も安いメニューでも、当初のランチで使う予定を超えた、普段の帝人の一日分の食費も超える値段に、なんとか溜め息を吐くのをこらえる。
すると静雄から「おごりだから、好きなもん食え」と声をかけられた。