やがて世界は姿を変える
「俺のドイツ」
兄さんがそう呼ぶ時の優しい響きが好きだった。
俺のものだという自信と、自らの手の中にあるものへの愛情。自分は兄さんのものだと、当然のように理解している事を改めて彼も同じように思っているのだと、確認するのは、幸せな事だった。
僅かに浮かぶ雲にほんの少し姿を隠した太陽が、再び冬の庭園を温かく照らす。目を眇めてそれを眺めたドイツは、ゆっくりと視線を眼前の城壁に戻した。
庭に植えられた木に体を隠すようにして立ったまま、ドイツはしばらくそこでじっとする。風は冷たいが、耐えられない程では無い。
誰にも何も言わずに部屋を出てきたから、おそらく探されている事だろう。この広い城内で人一人探すなんてかなりの難事だ。とはいえ、今の体はもう大きく成長している。まだ小さな体しか持っていなかった幼い頃なら木陰にでも隠れてしまえば誰にも見つかりはしなかっただろうが、身長が伸び筋肉がついた大柄な体で、そう人目を逃れる事なんてできない。程なくして誰かがドイツの姿を見つけて呼ぶだろう。その時にはこの見事な庭園を、眺めたくなって少し散歩していたと、そう答えればいい。決して間違ってはいない。兄が占領したこのヴェルサイユの城は、実際見事な美しさを誇っている。これ程の栄華を納めた城を、手に入れたのが自らの尊敬する男だと思うと余計に美しい。
「見つけたぜ、ドイツ」
基本的には手の掛からない子供だったと思う。けれど何度か、訳の分からない不安に襲われて、何かから逃げるように庭の木の根元にうずくまらせていた事がある。まだ幼かった頃、丸くなって木陰に隠れてしまえば誰の視線からも隠れてしまえるような小さな体しか持っていなかった頃。
誰にも見つからないと思っていたそこに、けれどきちんと手が伸ばされた。困った奴だと呆れたような、ただ愛しいものを慈しむような、優しい笑みを向けてドイツに手を伸ばしたプロイセンの手に、思わずドイツも隠れていたなんて事を忘れて自分の手を差し出した。
一人になりたいと思っていたのが一瞬で掻き消された事に少し遅れて気付く。おかしいとは思わなかった、プロイセンならそれくらいの事は容易くできるだろう。他の誰とも違って、彼だけはドイツの特別だ。
どうやってここを見つけたんだろうか。彼には自分の行動などお見通しだったのかもしれない。この苦しいような不安感の正体も、彼なら知っているのではないかと思う。それくらいにドイツにとって彼は大きな存在だった。
幼い自分には世界で何が起きているのか把握する術はほとんど無いが、プロイセンは多くの場合その渦中にいるのだろう。ドイツがこの先どうなるのか、その舵を握っているのはドイツ自身ではなく彼だ。
兄であり父であり師であり自分の運命を握る男の、伸ばし返した手を握る少し冷たい掌が、不思議な程しっくりと馴染んだ。
ここヴェルサイユへ入城した時も、自信に満ちた笑みを向けたプロイセンは、剣を持つ事に慣れた手でドイツをひらりと招いた。彼にそうされるとドイツの体はまるで操られてでもいるかのように体が動く。自然と足は彼を追いかける。親鳥を慕う小鳥か、光に引かれる小さな虫か。体が成長しても、そんな反射は幼い子供の頃とちっとも変わらない。俺のドイツ、と呼ばれて喜んでいる小さな子供と。
飼っているのか見事な庭園に誘われてきたのか、鳥の鳴き声が聞こえる。それに耳を澄ませていると、誰かが近づいてくる気配を感じた。そろそろ隠れんぼは終わりだろう。
「こんな所にいやがった」
ドイツの目の前に姿を現したのはやはりプロイセンだ。彼は勝手に部屋を出たドイツを特に怒っている訳でも心配していた訳でも無いらしく、ただ発見した事を喜んでいるような明るい笑顔を向ける。
「あぁ、庭が綺麗だったのでな」
探させてしまったならすまない、と謝ると、プロイセンは軽く首を振った。すぐに見つかったから問題ねぇよ、と答えた彼はどうやって自分を探し出しているのだろうか。
目には見えない繋がりというものがあるのかも知れない。彼と自分の間に存在するそれを、もう一度確認したくてこうして自分は庭に一人だったいたのだ。そしてプロイセンは容易く自分を見つけた。子供じみた事をした自覚はある。こういう事をするのは今日限りだ。
「フランスの野郎ほんとこういうの好きだよな」
庭園をぐるりと見回してプロイセンが満足げに笑う。そのセンスを嫌ってはいないのだろう。けれどその笑みは、フランスの好みに同意したというより、どちらかというと己が獲得したものを誇っているというのが正しいのかも知れない。
かつてはずっと見上げていた兄と、いつの間にか背の高さは並んでいる。今も少しづつ成長しているこの体は、おそらくそのうち彼を抜くだろう。
「綺麗なものを好むのは普通の事だろう」
「お前がそんな事言うとは思わなかったぜ」
ドイツの返事が意外だったらしく、プロイセンが面白い事を聞いたというように笑う。そのプロイセンの、日に透けるような銀の髪や繰り返してきた戦の痕が刻まれた白い肌、ぴしりと着こなされた軍服と、ドイツを見つめる慈しみの籠もった笑み、彼の持つどれもが美しいとドイツは思う。
鏡の間での宣言から、一晩が経過している。何かが変わったような気がするが、それが何かはまだ分からない。そんなものだろう、そのうち徐々に実感として伝わる様になるのかも知れないと、ドイツの何倍もの時間を生きてきたプロイセンはなんでもない事のように言った。国の大きな変化を何度も経験してきている彼が言うのだからそんなものなのだろう。
兄さんがそう呼ぶ時の優しい響きが好きだった。
俺のものだという自信と、自らの手の中にあるものへの愛情。自分は兄さんのものだと、当然のように理解している事を改めて彼も同じように思っているのだと、確認するのは、幸せな事だった。
僅かに浮かぶ雲にほんの少し姿を隠した太陽が、再び冬の庭園を温かく照らす。目を眇めてそれを眺めたドイツは、ゆっくりと視線を眼前の城壁に戻した。
庭に植えられた木に体を隠すようにして立ったまま、ドイツはしばらくそこでじっとする。風は冷たいが、耐えられない程では無い。
誰にも何も言わずに部屋を出てきたから、おそらく探されている事だろう。この広い城内で人一人探すなんてかなりの難事だ。とはいえ、今の体はもう大きく成長している。まだ小さな体しか持っていなかった幼い頃なら木陰にでも隠れてしまえば誰にも見つかりはしなかっただろうが、身長が伸び筋肉がついた大柄な体で、そう人目を逃れる事なんてできない。程なくして誰かがドイツの姿を見つけて呼ぶだろう。その時にはこの見事な庭園を、眺めたくなって少し散歩していたと、そう答えればいい。決して間違ってはいない。兄が占領したこのヴェルサイユの城は、実際見事な美しさを誇っている。これ程の栄華を納めた城を、手に入れたのが自らの尊敬する男だと思うと余計に美しい。
「見つけたぜ、ドイツ」
基本的には手の掛からない子供だったと思う。けれど何度か、訳の分からない不安に襲われて、何かから逃げるように庭の木の根元にうずくまらせていた事がある。まだ幼かった頃、丸くなって木陰に隠れてしまえば誰の視線からも隠れてしまえるような小さな体しか持っていなかった頃。
誰にも見つからないと思っていたそこに、けれどきちんと手が伸ばされた。困った奴だと呆れたような、ただ愛しいものを慈しむような、優しい笑みを向けてドイツに手を伸ばしたプロイセンの手に、思わずドイツも隠れていたなんて事を忘れて自分の手を差し出した。
一人になりたいと思っていたのが一瞬で掻き消された事に少し遅れて気付く。おかしいとは思わなかった、プロイセンならそれくらいの事は容易くできるだろう。他の誰とも違って、彼だけはドイツの特別だ。
どうやってここを見つけたんだろうか。彼には自分の行動などお見通しだったのかもしれない。この苦しいような不安感の正体も、彼なら知っているのではないかと思う。それくらいにドイツにとって彼は大きな存在だった。
幼い自分には世界で何が起きているのか把握する術はほとんど無いが、プロイセンは多くの場合その渦中にいるのだろう。ドイツがこの先どうなるのか、その舵を握っているのはドイツ自身ではなく彼だ。
兄であり父であり師であり自分の運命を握る男の、伸ばし返した手を握る少し冷たい掌が、不思議な程しっくりと馴染んだ。
ここヴェルサイユへ入城した時も、自信に満ちた笑みを向けたプロイセンは、剣を持つ事に慣れた手でドイツをひらりと招いた。彼にそうされるとドイツの体はまるで操られてでもいるかのように体が動く。自然と足は彼を追いかける。親鳥を慕う小鳥か、光に引かれる小さな虫か。体が成長しても、そんな反射は幼い子供の頃とちっとも変わらない。俺のドイツ、と呼ばれて喜んでいる小さな子供と。
飼っているのか見事な庭園に誘われてきたのか、鳥の鳴き声が聞こえる。それに耳を澄ませていると、誰かが近づいてくる気配を感じた。そろそろ隠れんぼは終わりだろう。
「こんな所にいやがった」
ドイツの目の前に姿を現したのはやはりプロイセンだ。彼は勝手に部屋を出たドイツを特に怒っている訳でも心配していた訳でも無いらしく、ただ発見した事を喜んでいるような明るい笑顔を向ける。
「あぁ、庭が綺麗だったのでな」
探させてしまったならすまない、と謝ると、プロイセンは軽く首を振った。すぐに見つかったから問題ねぇよ、と答えた彼はどうやって自分を探し出しているのだろうか。
目には見えない繋がりというものがあるのかも知れない。彼と自分の間に存在するそれを、もう一度確認したくてこうして自分は庭に一人だったいたのだ。そしてプロイセンは容易く自分を見つけた。子供じみた事をした自覚はある。こういう事をするのは今日限りだ。
「フランスの野郎ほんとこういうの好きだよな」
庭園をぐるりと見回してプロイセンが満足げに笑う。そのセンスを嫌ってはいないのだろう。けれどその笑みは、フランスの好みに同意したというより、どちらかというと己が獲得したものを誇っているというのが正しいのかも知れない。
かつてはずっと見上げていた兄と、いつの間にか背の高さは並んでいる。今も少しづつ成長しているこの体は、おそらくそのうち彼を抜くだろう。
「綺麗なものを好むのは普通の事だろう」
「お前がそんな事言うとは思わなかったぜ」
ドイツの返事が意外だったらしく、プロイセンが面白い事を聞いたというように笑う。そのプロイセンの、日に透けるような銀の髪や繰り返してきた戦の痕が刻まれた白い肌、ぴしりと着こなされた軍服と、ドイツを見つめる慈しみの籠もった笑み、彼の持つどれもが美しいとドイツは思う。
鏡の間での宣言から、一晩が経過している。何かが変わったような気がするが、それが何かはまだ分からない。そんなものだろう、そのうち徐々に実感として伝わる様になるのかも知れないと、ドイツの何倍もの時間を生きてきたプロイセンはなんでもない事のように言った。国の大きな変化を何度も経験してきている彼が言うのだからそんなものなのだろう。
作品名:やがて世界は姿を変える 作家名:真昼