お前にレモンキッス
このままヴェストとドライブだ。ディナーももう店を予約してある。あいつが女を作っていた気配なんて感じた事は無い。勿論男もだ。正式に交際している訳でもない相手に対して不埒な真似に及べるような器用な性格とも思えない。つまりあいつの初めては何もかも俺が頂きって訳だ。プロイセンはぐっと拳を握る。
またエレベーターのドアが静かな音と共に左右に開いた。そしてその中に大柄な男を見つけてプロイセンは笑みを浮かべる。準備は万端、後はこいつを連れ出して上手い事そういう雰囲気を作って流れ込むだけだ。
「よお、ヴェスト」
肩手を上げて弟を呼ぶと、やはりドイツは驚いたような様子を見せた。そしてすぐにプロイセンの方へ靴先を向ける。
「お疲れさん。迎えに来てやったぜ」
「わざわざこんな遠くまでか?」
口調から判断するに、どうやら喜んでくれてはいないらしい。どちらかというと、子供扱いされたと憤慨しているようだ。そういえば彼が幼い時は目を離した隙に彼に何かあってはと、こうやってあちこちに送り迎えをしてやった気がする。ある程度大きくなってからはやめたそれと、一緒にされては堪らない。
文句めいた事を言いながらも、プロイセンがひらりと身を翻して車を置いてきた駐車場に向かうとドイツは黙って後ろを付いてきた。ちらりと振り向くとそこには鍛えられた体に隙の無いスーツ、きちんと撫でつけられた乱れのない金髪と結ばれた口。少し早い歩調で歩く兄へきちんと付いてくる弟を、可愛い奴だな、とプロイセンは思う。
中の熱された空気を逃がすように助手席のドアを全開に開けると、ドイツへ中に入るよう促した。夏の野外に駐車していた車内は熱されていて苦しいが、冷房を掛けっぱなしにしてはいけない規則だから仕方ない。
ドイツがせっかく開けてやった助手席のドアを閉める。そしてプロイセンの後ろに立った。
「俺が運転しよう」
そう言ってドイツが、運転席のドアを開けて中へ入ろうとしていたプロイセンの体を押しのけるように押す。何言ってんだこいつは。とプロイセンは呆れて溜息を吐いた。
仕事終わりの恋人をドライブに誘って雰囲気のいいレストランへ連れて行くのが今夜の計画だ。場を盛り上げて、とりあえず今日の目標はこいつとキスをする事。大事な弟のファーストキスだ、とびきりのシチュエーションを作ってやるのが恋人兼兄の役目ってものだろう。
という訳で、彼が運転するという提案は却下だ。
「恋人への労りを無碍に扱ってんじゃねぇよ」
プロイセンは車に乗り込もうとしたドイツの邪魔をするように手を伸ばした。
「こい……っ!?」
「なんだ、違ったのか?」
反射的に同じ単語を繰り返したドイツを、プロイセンはからかうように笑って見上げる。
「あ、いや、間違ってはいない」
わざとらしい咳払いは照れ隠しだろうか。隠した所でバレバレだ可愛い奴め。弟が助手席にきちんと座ったのを見届けて、プロイセンも運転席に乗り込む。発進させる前に、何かいい感じの曲でも流しておこうかと車の正面中央に設置された機器に顔を近づける。何をしていているのかと弟がプロイセンの手元を覗く。
「レモンのにおいがするな。何か食べたのか?」
「あぁ、ちょっとな」
距離が詰まった事で気付いたらしい弟に指摘されて、プロイセンはなんとも言えない気持になった。ごまかすようにせわしなくカチカチと機器をいじって適当な曲を探すプロイセンにドイツが話しかけてくる。
「その…兄さん」
「どうした?」
「そろそろ付き合いだして一週間だろう」
「? そうだな」
彼がその程度の期間で日付を忘れるとも思えない。そんな事を確認してだからなんだというのだろう。弟が何を言いたいのかいまいち分からず、プロイセンはドイツの方を向いた。
「つまり、そろそろこういう事をしてもいい時期かと思うんだが」
そう言ったかと思うと、ドイツの顔が近づいてくる。元々ほどんど無かった距離が、あっという間にゼロに詰められた。唇に軽く触れた感触に何が起きたか状況を理解する。
ドイツに、よりによってこんな所でキスをされた。
「なっ…!!」
そして理解するや否や、プロイセンはドイツの胸を思い切り突き飛ばした。ふざけんな、何考えてやがるこの馬鹿が!
「すまない! まさかそんなに嫌がられるとは…」
「違っ、嫌じゃねえぞ! それだけは断固言っとくからな!」
そう取られても仕方ない行動とはいえ、嫌がられたなんて思われては心外だ。違う、俺がなんのために懸命に計画を練ったと思ってるんだ。全部お前のためじゃねぇか。
「嫌じゃねえが、可愛い弟のファーストキスなんだぜ、とびっきりのシチュエーションでキメてやりたいじゃねえか、それがなんでこんな所なんだよ!」
雰囲気もへったくれもない猛暑の車内。人気が無く他の車が動いている音もしない静けさは多少の救いだが、それにしたって何の面白みもないただの駐車場だ。車窓の景色なんて車と白線の引かれた地面くらいだ。あんまりだろう。こちらの気遣いをなんだと思っているんだ、何もかも台無しにしてくれやがって。
「何を言っているんだ。初めてではないぞ」
「は?」
叫んでいると、ドイツが平然とそんな事を口にする。何かそれはまさかフォローのつもりか。いつどこの誰と済ませやがった。聞いてねぇぞ。
いやそんな事わざわざ報告しなくてはならないなんてはずは無い上に、報告されても対応に困る。まして弟はそれなりの年齢でしかもとびきりのいい男だ、むしろ済ませていない方がおかしい。少し考えればそれくらいの予想はついただろうに。こと弟に関しては、どうやら目が曇ってしまいがちらしい。
「小さい頃兄さんがよく寝る前にしてくれた」
俺ってやつは……。
けれどドイツが続けた言葉に、あぁ言われてみればやってたなそんな事、とプロイセンは思わず脱力する。ほんの小さい頃だけだ、した方はすっかり忘れていたっていうのよく覚えている。
自分によく懐く幼い子供への愛情表現でしかなかったが。彼の自室のベッドの上だ、駐車場よりは数倍いいシチュエーションだろう。昔の自分を褒めてやりたいような、なじってやりたいような複雑な気持ちだ。
プロイセンのポケットの中でキャンディの包みがかさりと小さな音を立てる。
どうやら彼相手に小細工は無用だったらしい。そして彼の顎をなぞる様に指で撫でる。プロイセンはによっと笑って弟に誘うような視線を向けた。
「もう一回しろよ、ヴェスト」
まぁ、どっちにしろ俺ってあたりが救えねえなこいつ。