Double Stars
――――雨の音が、した。
「世界から、私がいなくなった後、キミは、どんな顔をするんだろうな。」
一年ぶりにかかってきた、電話ごしに聞こえる半分泣きそうな御剣の声に、成歩堂は半ば困惑しながら、言葉を返す。
「御剣、どこにいるの?」
「‥‥‥‥自宅、だ。」
「嘘つき。」
自宅にいて、こんな雨の音がするはずがない。さらに、雨の音の間からわずかに聞こえる急流の音には、成歩堂も聞き覚えがあった。
‥‥成歩堂自身も、落ちたことがあるのだから。
「行くから。」
その言葉に電話の向こうの御剣は、声を枯らして叫んだ。
「来るな!」
「‥‥そんな言葉で、ぼくを止められると思ってるの?」
だとしたら、キミは相当お人好しだ。
「いつだって‥‥キミはそうだッ!ヒトのメイワクもっ‥‥考えないで‥‥勝手にッ!」
だから、貴様が嫌いなんだ、とかなんとか、電話の向こうの御剣は叫び続けていたが、成歩堂は無造作に電話を切った。ツー、ツー、という無機質な電子音だけが残る。
(‥‥嫌いなんだったら、電話なんてかけてこないでしょ、御剣‥‥。)
キミが、ぼくに電話をかけてきたのは‥‥心のどこかで、ぼくが助けに来ることを望んでいるから。
(「キミが望むことなら、なんでもするよ。」)
いつか、ぼくはそう言った。だから‥‥。
(ぼくはキミを助けにいく。)
そう、心の中で呟くと、成歩堂は土砂降りの雨の中に、傘もささずに飛び出していった。
すっかり、濡れてしまった衣服が身体に張りつくのを気持ち悪く思いながら、御剣は上を向いた。厚い鈍色の空からは、永遠にやむことなどないように、容赦なく雨が叩きつける。まるで、シャワーのようだ。
‥‥そして、御剣は、つり橋の上にいる。
(どうして、キミになんか電話したんだろうな。)
下を向くと、吾童川の激しい流れが、見えた。上を向くと、その急流の音もかきけすくらいの激しい雨が、御剣の頬を痛いほど叩いた。
――――視界が、滲む。やけに暖かい雨が、頬を伝った。
これは、雨だ、と自分に言い聞かせながら、御剣は立ち上がる。死ぬ決意をしているというのに、不思議と恐くはなかった。おかしなことに、逆に笑いがこみあげてきた。
――――世界から、私がいなくなった後――――キミは、どんな顔をするんだろうな。
そのことを考えると、たまらなく可笑しい。私がいないつり橋の上で、彼はどんな顔をするんだろう。
――――けれど、分かっている。いくら止めてもキミは来てしまう。あの時だってそうだった。
(「メイワク、だったか?」)
―――メイワクも何も最初から私を弁護すると決めてきたくせ、に。
御剣は、つり橋の手すりに体重をかけた。そして、小さく呟く。
「いつだって、キミはそうだ。ヒトのメイワクも、考えないで勝手に‥‥だから、キミが‥‥。」
――――だから?だから、私は成歩堂をどう思っているというのだ?
――――そして、これが私が、この世界に残す最後の言葉。
(――――きっと。)
きっと最初から分かっていた。最後に隣にいるのは、私ではない、ということくらい。一瞬でも、望んでしまったことが愚かだった。
「だ‥‥。」
目の奥から、降ってくる雨と同じくらいの涙が溢れ出した。
「大好きだッ‥‥馬鹿者!」
体重をかけた手すりから、ロープとロープが擦れる音がする。汗か、雨か、誰かの涙かで、濡れた顔のまま、御剣は手すりにさらに体重をかけていく。顔を拭うことすら、もどかしい。
腰を中心に世界が反転するか、しないか――――その刹那、御剣は後ろから、抱き締められた。
「バカ!」
聞き慣れたその声と同時に、身体が後ろに引っ張られる。生と死の境にいた御剣はつり橋の上へと、引き戻された。
視界が雨と涙のせいで、滲んで目の前の人物の顔は良く分からなかったが、誰かということだけは分かった。目をこすって、少しだけ笑う。
「‥‥来てくれると、信じていた。」
次の瞬間、左頬を信じられないスピードで張り飛ばされる。少しは良好になった視界の中に泣きそうに歪んだ成歩堂の顔を見つけて、痛みより、驚きより、真っ先に安堵を感じた。
「なんで、死ぬなんていうんだよ、バカ‥‥ッ!」
成歩堂は尚も御剣の頬を張り飛ばし続け、挙げ句の果てに鳩尾に蹴りを入れた。瞬間、肺が機能しなくなり、空気を求めて喘ぐ口から鮮血が零れる。
――――雨と曇天で一面灰色の世界に、鮮やかな紅い華が散った。
「ぼくが大好きだって‥‥言うなら‥‥どうして死ぬなんて言うんだ!」
溢れだす血を同じワインレッドのスーツで拭うと、御剣は喘ぐ。
「キミが大好き、なんて‥‥ッ、誰が‥‥言った‥‥!死ぬだ、なんてッ、誰が‥‥言った?私は‥‥ただッ!世界から、私、が‥‥いなくな‥‥くぅッ!」
そこで、御剣はゴホッと咳き込んで血を吐いた。
「キミが、この世からいなくなったら、きっとぼくは泣く。でも、キミがこの世からいなくなっても‥‥。」
成歩堂は御剣をこれ以上ないほど強く抱き締めた。土砂降りの雨のせいで乾いているところなど、一ヶ所も無くなってしまったスーツを通して、成歩堂の体温を感じる。
「ぼくの世界から、キミはいなくならないんだよ‥‥!」
密着した頬に暖かい液体が流れるのを感じて、その時はじめて、成歩堂が泣いていることに気がついた。その、不思議に御剣は打たれる。
「‥‥キミは、不思議な人間、だな。」
「どうして?」
土砂降りの雨のせいで、ぐしょ濡れになった成歩堂の髪の毛をギュッと握ると御剣は微笑んだ。
雨が叩きつける音で下の急流の音さえ聞こえない。あまつさえ、他の音が聞こえるわけがない。それは、キミとて同じこと、だろう。だから今、私が紡いでいる言葉は‥‥。
(――――世界でキミにしか、聞こえない。)
「私が生きていている方が、嬉しいなど‥‥相当稀な人間、だ。」
――――黒い噂は今も無くならない。
(「疑われていることは、知っている。嫌われることには、もう慣れた。」)
そう、自分で公言してしまえるほど、周囲から忌み嫌われてきたはずだ。
あの時以来――――私はいつ死んでも構わない、と思っていた。現在を生きながらえることに意味はあるのか、と思っていた。
息をすることが贖罪、生きていることそれ自体が贖いだとでも言わんばかりに目の前に広がるモノトーンの世界を、ただ見ていた。罪を裁き続けることで自分をやっと支えて。
そして、あの時――――父ではなく、私が死んでいれば――――。
そう、私が死んでさえいれば――――何も始まらず、何も終わらなかったかもしれないのに、とそう思ってきた。周囲の人間も、そう思っているはず、だった。私さえいなくなれば、もっとシアワセになれるのに、と。
「そりゃ、御剣が好きだから。」
多くのヒトがいなくなってほしいと願っているだろうこの私を、キミは好いてくれる。愛してくれる。そして――――。
(――――ああ。)
キミは私が死ぬ、と言えば泣いてさえくれるのだな。
「キミは優しすぎる。」
(――――じゃあ、そんな優しいキミは‥‥。)
雨が強さを増した。叩きつける雨に、痛みを感じるくらいに。水煙で目の前の互いの顔さえ見えない。まだ、落ちてもいないのに、急流に身を投じてきたかのようだ。
「私が、一緒に死のうと言ったら、キミはどうする?」
「世界から、私がいなくなった後、キミは、どんな顔をするんだろうな。」
一年ぶりにかかってきた、電話ごしに聞こえる半分泣きそうな御剣の声に、成歩堂は半ば困惑しながら、言葉を返す。
「御剣、どこにいるの?」
「‥‥‥‥自宅、だ。」
「嘘つき。」
自宅にいて、こんな雨の音がするはずがない。さらに、雨の音の間からわずかに聞こえる急流の音には、成歩堂も聞き覚えがあった。
‥‥成歩堂自身も、落ちたことがあるのだから。
「行くから。」
その言葉に電話の向こうの御剣は、声を枯らして叫んだ。
「来るな!」
「‥‥そんな言葉で、ぼくを止められると思ってるの?」
だとしたら、キミは相当お人好しだ。
「いつだって‥‥キミはそうだッ!ヒトのメイワクもっ‥‥考えないで‥‥勝手にッ!」
だから、貴様が嫌いなんだ、とかなんとか、電話の向こうの御剣は叫び続けていたが、成歩堂は無造作に電話を切った。ツー、ツー、という無機質な電子音だけが残る。
(‥‥嫌いなんだったら、電話なんてかけてこないでしょ、御剣‥‥。)
キミが、ぼくに電話をかけてきたのは‥‥心のどこかで、ぼくが助けに来ることを望んでいるから。
(「キミが望むことなら、なんでもするよ。」)
いつか、ぼくはそう言った。だから‥‥。
(ぼくはキミを助けにいく。)
そう、心の中で呟くと、成歩堂は土砂降りの雨の中に、傘もささずに飛び出していった。
すっかり、濡れてしまった衣服が身体に張りつくのを気持ち悪く思いながら、御剣は上を向いた。厚い鈍色の空からは、永遠にやむことなどないように、容赦なく雨が叩きつける。まるで、シャワーのようだ。
‥‥そして、御剣は、つり橋の上にいる。
(どうして、キミになんか電話したんだろうな。)
下を向くと、吾童川の激しい流れが、見えた。上を向くと、その急流の音もかきけすくらいの激しい雨が、御剣の頬を痛いほど叩いた。
――――視界が、滲む。やけに暖かい雨が、頬を伝った。
これは、雨だ、と自分に言い聞かせながら、御剣は立ち上がる。死ぬ決意をしているというのに、不思議と恐くはなかった。おかしなことに、逆に笑いがこみあげてきた。
――――世界から、私がいなくなった後――――キミは、どんな顔をするんだろうな。
そのことを考えると、たまらなく可笑しい。私がいないつり橋の上で、彼はどんな顔をするんだろう。
――――けれど、分かっている。いくら止めてもキミは来てしまう。あの時だってそうだった。
(「メイワク、だったか?」)
―――メイワクも何も最初から私を弁護すると決めてきたくせ、に。
御剣は、つり橋の手すりに体重をかけた。そして、小さく呟く。
「いつだって、キミはそうだ。ヒトのメイワクも、考えないで勝手に‥‥だから、キミが‥‥。」
――――だから?だから、私は成歩堂をどう思っているというのだ?
――――そして、これが私が、この世界に残す最後の言葉。
(――――きっと。)
きっと最初から分かっていた。最後に隣にいるのは、私ではない、ということくらい。一瞬でも、望んでしまったことが愚かだった。
「だ‥‥。」
目の奥から、降ってくる雨と同じくらいの涙が溢れ出した。
「大好きだッ‥‥馬鹿者!」
体重をかけた手すりから、ロープとロープが擦れる音がする。汗か、雨か、誰かの涙かで、濡れた顔のまま、御剣は手すりにさらに体重をかけていく。顔を拭うことすら、もどかしい。
腰を中心に世界が反転するか、しないか――――その刹那、御剣は後ろから、抱き締められた。
「バカ!」
聞き慣れたその声と同時に、身体が後ろに引っ張られる。生と死の境にいた御剣はつり橋の上へと、引き戻された。
視界が雨と涙のせいで、滲んで目の前の人物の顔は良く分からなかったが、誰かということだけは分かった。目をこすって、少しだけ笑う。
「‥‥来てくれると、信じていた。」
次の瞬間、左頬を信じられないスピードで張り飛ばされる。少しは良好になった視界の中に泣きそうに歪んだ成歩堂の顔を見つけて、痛みより、驚きより、真っ先に安堵を感じた。
「なんで、死ぬなんていうんだよ、バカ‥‥ッ!」
成歩堂は尚も御剣の頬を張り飛ばし続け、挙げ句の果てに鳩尾に蹴りを入れた。瞬間、肺が機能しなくなり、空気を求めて喘ぐ口から鮮血が零れる。
――――雨と曇天で一面灰色の世界に、鮮やかな紅い華が散った。
「ぼくが大好きだって‥‥言うなら‥‥どうして死ぬなんて言うんだ!」
溢れだす血を同じワインレッドのスーツで拭うと、御剣は喘ぐ。
「キミが大好き、なんて‥‥ッ、誰が‥‥言った‥‥!死ぬだ、なんてッ、誰が‥‥言った?私は‥‥ただッ!世界から、私、が‥‥いなくな‥‥くぅッ!」
そこで、御剣はゴホッと咳き込んで血を吐いた。
「キミが、この世からいなくなったら、きっとぼくは泣く。でも、キミがこの世からいなくなっても‥‥。」
成歩堂は御剣をこれ以上ないほど強く抱き締めた。土砂降りの雨のせいで乾いているところなど、一ヶ所も無くなってしまったスーツを通して、成歩堂の体温を感じる。
「ぼくの世界から、キミはいなくならないんだよ‥‥!」
密着した頬に暖かい液体が流れるのを感じて、その時はじめて、成歩堂が泣いていることに気がついた。その、不思議に御剣は打たれる。
「‥‥キミは、不思議な人間、だな。」
「どうして?」
土砂降りの雨のせいで、ぐしょ濡れになった成歩堂の髪の毛をギュッと握ると御剣は微笑んだ。
雨が叩きつける音で下の急流の音さえ聞こえない。あまつさえ、他の音が聞こえるわけがない。それは、キミとて同じこと、だろう。だから今、私が紡いでいる言葉は‥‥。
(――――世界でキミにしか、聞こえない。)
「私が生きていている方が、嬉しいなど‥‥相当稀な人間、だ。」
――――黒い噂は今も無くならない。
(「疑われていることは、知っている。嫌われることには、もう慣れた。」)
そう、自分で公言してしまえるほど、周囲から忌み嫌われてきたはずだ。
あの時以来――――私はいつ死んでも構わない、と思っていた。現在を生きながらえることに意味はあるのか、と思っていた。
息をすることが贖罪、生きていることそれ自体が贖いだとでも言わんばかりに目の前に広がるモノトーンの世界を、ただ見ていた。罪を裁き続けることで自分をやっと支えて。
そして、あの時――――父ではなく、私が死んでいれば――――。
そう、私が死んでさえいれば――――何も始まらず、何も終わらなかったかもしれないのに、とそう思ってきた。周囲の人間も、そう思っているはず、だった。私さえいなくなれば、もっとシアワセになれるのに、と。
「そりゃ、御剣が好きだから。」
多くのヒトがいなくなってほしいと願っているだろうこの私を、キミは好いてくれる。愛してくれる。そして――――。
(――――ああ。)
キミは私が死ぬ、と言えば泣いてさえくれるのだな。
「キミは優しすぎる。」
(――――じゃあ、そんな優しいキミは‥‥。)
雨が強さを増した。叩きつける雨に、痛みを感じるくらいに。水煙で目の前の互いの顔さえ見えない。まだ、落ちてもいないのに、急流に身を投じてきたかのようだ。
「私が、一緒に死のうと言ったら、キミはどうする?」
作品名:Double Stars 作家名:ゆず