空を泳ぐ
やっと休みが取れた、と嬉しそうに帰って来たフランシスが出迎えたアーサーを抱き締めたのが三日前。
入学して最初の一年は、かつてアーサーに告げた通り夏季と冬季の休暇にフランシスも帰省していた。
しかし学年が上がるにつれて実地訓練やレポートなどに追われ、帰省する余裕がなくなっていった。
アーサーが数年振りに見たフランシスは、髭を生やし、体つきも大分がっしりしていた。
アーサーも高等部に進学し、大分身長も伸びた。
たかが三歳差されど三歳差。幼い頃から分かっていた差ではあったが、月日の流れでは説明できない体格差が二人の間に生まれていた。
フランシスの腕の中にすっぽり収まったことが、アーサーの中の男としての矜持を粉々に砕いた。
一方のフランシスも、いくら華奢だったとはいえ、記憶の中とあまり変化のない腕の中の幼なじみに驚いた。
ただし頭の位置は大差がなく、向き合えば互いの瞳がぶつかった。
まじまじと互いの顔を見合わせ同時に呟いた一言は、数年振りの再会に似つかわしくないものだった。
「……アーサー、ちゃんと食べてる?」
「……フランシス、お前老けたな」
呟いた一言は、どちらも本人なりに気にしていることだった。
アーサーの拳はフランシスの鳩尾へ、フランシスの革靴はアーサーの臑へ。
玄関先で踞る二人は、しばらく動けなかった。
何と嘆かわしいことか、とどこか演技じみた声音と共にアーサーは項垂れた。
「なんで髭なんか生やしたんだよ馬鹿! お前の唯一の美点が……!」
そう言ってフランシスを見るアーサーの瞳は潤んでいる。
アーサーが昔からフランシスの容姿を気に入っているのは何となく分かっていたが、ここまで本気で嘆かれるとフランシスとしては腹が立ってくる。
「こうでもしなきゃ男だらけの学校じゃ掘られるんだよ! お兄さんの美貌はアーサーだってよく知ってるでしょ!」
「それはそうだけど! ああ、ちくしょう、こんな髭親父、俺の幼馴染じゃねえ……」
この世の終わりとでもいうように、アーサーは絶望し切った顔になった。
髭を生やしたところで狙われる確率が下がる訳ではないが、フランシスは何もしないよりはマシだと思ったのだ。
アーサーには死んでも言わないが、髭を生やしたところで掘られるものは掘られるし、掘るときは掘る。
周りに同性しかいないと、セックスに関する価値観が割とどうでもよくなってくる。
フランシス自身、昔からどちらでもいいかと思い生きてきたので、士官学校での経験はちょっと背中を押された程度にしか思っていない。
このままだと不毛な争いが続くだろうと直感し、フランシスは神に祈るような面持ちのアーサーに声を掛けた。
「それよりお昼まだでしょ? 俺が久々に作るよ」
「本当かっ!?」
ばっと顔を上げたアーサーの瞳は輝いていた。
現金だなあ、とは思うが直接口にしない。せっかく浮上したアーサーの機嫌がまた急降下してしまう。
「だから手伝って」
「仕方ないから手伝ってやる。俺は腹が減ってるから手伝うのであって、別にお前の料理が早く食いたいからとかじゃないんだからな」
「はいはい、分かってるって」
何年経ってもアーサーの物言いは変わらない。幼い頃と変わらない言い回しにフランシスは懐かしさを感じた。
かつては頭一つ分あった身長差が大分埋まっている。
特に他意はなかったがフランシスは自分の手をアーサーの頭の上にぽんと置いた。
「なんだよ」
「いやー? 身長だけはしっかり伸びたんだなって感心しただけ」
アーサーは何か言い返そうかと思い、口を開いた。だが言葉は発せられずに息を吸い込むだけに終わる。
幼馴染の浮かべる笑みに言葉が出なくなった。アーサーのよく知る、自分を小馬鹿にする時の表情とは何もかも違っていた。
「アーサー、ちょっとこれ味見して」
「ん」
鍋の中ではぐつぐつとスープが煮込まれている。
学校にいると食事は当然食堂で摂ることになるので、フランシス自身が料理をするのはかなり久々だった。
いくら久々とはいえ、料理の腕がアーサーより劣ってしまったということはないだろう。
なかなか手に馴染まない包丁の感覚に焦れながらも、アーサーに味見してもらえるところまで料理はできあがっていた。
フランシスの料理なら何でもぺろりと平らげるアーサーから返事がない。スープを少量を分けた小皿を受け取って、それきりだ。
後ろを振り向けば、アーサーが顔を顰めていた。
まさか本当に、この数年で自分の料理の腕は落ちぶれてしまったのだろうか。
スコーンを炭化させる料理の腕の持ち主に顔を顰められるなど、有り得ないことである。フランシスの顔から血の気が失せる。
「え、なに、ひょっとしてまずい? まずいの?」
「いや……まずくはねーけど」
アーサーはそう言うが、相変わらず表情は晴れない。
フランシスもアーサーから小皿を奪い、皿に残ったスープを味見する。
今度はフランシスが首を傾げる番だった。
「あー……ちょっと薄味?」
「どこがだよ!? 十分濃いだろ! もうちょっと薄くてもいいくらいだ」
「え、坊ちゃん何言ってんの? ついに舌までおかしくなった?」
「そういうお前こそ正気かよ。これで味薄いとか有り得ねー」
互いが互いの味覚を罵り合う。
フランシスはアーサーの料理の腕が壊滅的だと知っているから、思う存分アーサーの料理音痴っぷりを責めた。
逆にアーサーは口数が少なく、吐き出される言葉もスラングと言えるほど口汚いものではない。
アーサー自身もフランシスの料理の腕前を十分に知っている。
だから目の前のフランシスが「薄味だ」と言うならば、実は相手の味覚の方が正しいのでは、と思い始めていた。
ぐつぐつと鍋の中身が煮立ち始め、フランシスは妥協することにした。
「まあ、薄味の方が体にいいからな。このままでいこう」
「……ああ」
互いの味覚に折り合いを付けた二人は、妙な蟠りを抱えたままテーブルに着いた。
091109(090502)