空を泳ぐ
広がるのは上品ながらも憂いを含んだ瑠璃色。
先に飛び出てくるのは銀色の先端。
それを引き上げれば白色が続く。
何となくそれがアーサーの厭うものに似ているとふと気付き、そこで手は止まってしまった。
一心不乱とまではいかなくても、今のアーサーの意識の大部分は手元の布に注がれていた。
特にやろうと思って始めた刺繍ではないが、いざ手に取り始めると時間を忘れてしまう。
仕事も一段落し、面倒を見ている同居人が帰ってくるにもまだ時間があった。
庭に出て草木の面倒でも見ようか、そう思って庭先に出る寸前、たまたまやりかけだった刺繍が目に映った。
気がつけば布に面と向かってから大分時間が経っていた。
そろそろ同居するあの少年が帰ってくる時間だ。
刺繍道具を手早く片付ける。作業を開始する前の位置にそれらを戻すと、アーサーはもう一度時計を確認した。
同居人の帰宅を待つと、アフタヌーンティーにしてはやや遅くなるような気もする。
一人でお茶を味わうのもいいが、折角ならば同居人との会話を楽しみたい。
あの少年は育ち盛りだから、菓子類も多めに用意しておいた方がいいだろう。
そうなると、準備しているうちにあの少年の帰宅時間とちょうどいい案配になりそうだ。
頭の中でぱっと計算しスケジュールを組むと、アーサーは「よし」と気持ちを切り替えた。
それまで刺繍をしていたリビングからキッチンへ。
一歩踏み出したところでやけに騒がしい足音がした。
「アーサー、アーサー、聞いてくれよ!」
飛び込んできたのは、アーサーよりも明るい金髪の少年だった。
少年と青年の過渡期に位置する彼は、体つきこそがっしりしているが、その表情はまだまだ幼い。
飛び込んできた少年の笑顔に、何故かアーサーは安堵を覚えた。思わずふと表情が緩む。
「そんなに慌ててどうしたんだ、アル」
アル、と親しみを込めて呼ばれた少年は、弾む息を整えることなくアーサーの肩を掴んだ。
二人が面と向かうと、アルフレッドの方がほんの僅かに背が高い。
二人の歳は一回りとはいかなくても十は離れていた。
まだまだ子供だと思っていたのに、もうこんなに大きくなったのか。
こちらを真っ直ぐ見つめる空色の瞳に飲み込まれながらも、アーサーは感慨深くそう思った。
アーサーの感動には微塵も気付かず、アルフレッドは全身で喜びを叫んでいた。
「俺、決まったんだ!」
「何がだよ」
アーサーは苦笑混じりに少年を落ち着けようとする。
アルフレッドは幼い頃から、興奮し出すと話していることの順番がばらばらになりがちだった。
十年以上アルフレッドの世話をしてきたアーサーにしてみれば、彼の言うことを分かりやすく整理するのも慣れたものだ。
いつもと同じように順序良くアルフレッドの話を聞いてやろうとして、次に飛び出した言葉に固まってしまった。
「俺は飛空士になるんだぞ! パイロットになるんだ!」
その日は、アーサーの幼馴染を連想させるような清々しくも悲しい晴天だった。
アーサーはアルフレッドの幼い頃から色々なことを言い聞かせてきた。
それは世間一般の常識やマナーだったり、アーサーの人生から鑑みた教訓だったりした。
その中で、何度も何度も繰り返しアルフレッドに言い聞かせてきたことがある。
「人は、空を飛べないんだ」
午後のお茶を楽しむことなど、アーサーの頭の中からは綺麗さっぱり消えていた。
先程まで刺繍をしていたソファーにもう一度座り、今度は帰ってきたアルフレッドを向かい側に座らせる。
アーサーは口癖とも呼べるそれを、独り言のように呟いた。
幼いアルフレッドにも何度も言い聞かせて来た。
沈み行く夕日を見て、降り注ぐ日中の日差しを見て、夕刻の飲み込まれそうな藍色の薄暗さの中でぽつんと穿たれた太陽を見て。
刻々と変化し、様々な表情を見せる空が憎くなったのはいつの頃からだったか。
アルフレッドと出会うより前であることは確かだ。
空への憎悪を和らげてくれたのが、目の前に座る子供だったのだから。
「だいたい俺は、お前から何一つ進路に関する話を聞いてなかったんだ。なのに突然『パイロットになる』だって? ふざけんな、お前、俺を何だと思ってる。お前の保護者だぞ? 手放しではいそうですか良かったな棺桶乗って鉛玉食らってこいなんて言えると思うか?」
始めの方こそアーサーは理性的に話そうと努めていたが、一音一音口にする度に、保とうとしていた冷静さは砕けていった。
アーサーが語気を荒げるに従って、アルフレッドの眉間に皴が刻まれていく。
アーサーが言い終わると同時、初めから冷静さなどなかったアルフレッドは対面に座る保護者に食ってかかった。
「君が俺の進路は自分の好きなようにしろ、って言ったんじゃないか。だから俺は自分の好きなようにしたんだぞ。それの何がいけないんだい!」
「良い悪いの問題じゃねえよ! 俺に何の相談も断りもない時点でおかしいとは思わないのか!?」
「だから何で自分のことを決めるのにいちいち君に断らなきゃいけないんだ!」
話し合いにも説教にもならない。互いが声を荒げ、肝心要の本題にすら至らない。
アーサーはあれだけ言って聞かせてきたにも関わらず、アルフレッドが空を目指す理由が分からなかった。
アルフレッドは幼い頃から、何故アーサーがそこまで空を嫌うのか全く分からなかった。アーサーは何一つその原因を語らなかったのだ。
二人は相手のことを理解出来ずに、ただただ睨み合いを続ける。口を開けば言う必要のないことまで言ってしまいそうで、どちらも口を開けなかった。
先に瞳を閉じて無言の争いを抜けたのはアーサーだった。
アーサーはゆっくりと息を吐き出した。すると一度忘れかけていたことが、いつの間にか心の定位置に収まっていた。
この子供が帰ってくる前にやっておこうとしたことを実行すべく立ち上がる。茶会の準備でもすれば、この荒れる心も少しは静まると思った。
「……アフタヌーンティーの準備をしてくる」
相手の顔を見ないようにしてアーサーはキッチンに向かった。
おそらく背後ではアルフレッドが小憎たらしい顔でこちらを睨んでいるのだろう。
アーサーには彼が今どんな気持ちか、ありありと想像できた。
(大事な話よりお茶の方が大事かい。これだから年寄りは嫌なんだ)
最近反抗的になってきた自分の育てた子供の声ではない。
アーサーの想像を再生したのは、幼い頃の自分と同じ声だった。
ケトルで湯を沸かしている間、逆にアーサーはどんどん冷静になっていった。
もちろんアルフレッドに対し謝罪しようという気持ちは微塵もない。ただ、頭ごなしに彼を否定するのは止めておいた方がいいだろう。
まずは説得だ。アルフレッドの夢に反対するのはそれからでも十分だ。
スコーンを焼く時間も気力もなかったので、戸棚にあったクッキーをトレイに載せる。
アルフレッドのことだから、こんな時でも「コーヒーがいい」と文句を零すのだろう。しかしアーサーはそこまで彼を甘やかすつもりはなかった。