奥州にて
一瞬小十郎の口元が緩む。照れたような、嬉しそうな、なんとも言えない様子で。
そして慶次は、その表情を見た瞬間、あっと思った。
彼にしてみれば、それは本当に何気ない一言で、もちろん一般的な主従としての絆を差した言葉であった。けれど、今小十郎が浮かべた表情は紛れもなく、情を持つ相手を想うときのそれだったのだ。
あー、俺もまだまだ修行が足りないぜ。慶次はそっと心の中で苦笑する。男所帯でも恋の華は、咲くときゃ咲くんだったよな。自分に縁がないばかりに、すっかり忘れていた。
しかし、ここで冷やかしの茶々を入れるほど慶次も野暮ではない。何より、その小十郎の表情は本当にいい感じだったので、慶次もなんだか幸せな気分になったのだ。だから彼は、黙って微笑んだまま小十郎を見詰めた。
その視線に我に返ったように小十郎が空咳を一つする。それからやっと、慶次に顔を向けたと思うと言った。
「なんだか喉が渇いたぜ――おい、次はてめぇが亭主になれ」
「えー?」
慶次は大仰に嫌がって見せる。小十郎は再び仏頂面に近い表情になり、慶次を睨み付けてきた。
「風来坊でも武家の人間である以上、それくらいの嗜みは持ってんだろ?」
「いや、点てろって言われりゃ出来るけどさぁ」
「元々招かれざる客だってことを忘れんじゃねぇぞ」
「はいはい」
仕方なく慶次は支度を始める。
「どうせなら茶より酒の方がいいんだけどね」
「明日は早朝にも小田原を目指し出立だ。今日は酒など呑んでる暇ぁねぇよ」
思わず呟いた慶次の言葉に、小十郎は声を返した。慶次は手を止め、小十郎の顔を見詰める。
「――やっぱり独眼竜は、ひとり魔王さんに挑もうってんだな」
「ひとり、だと?」
小十郎は鼻で嗤った。
「政宗様には、俺を始めとした伊達の軍、ひいては奥州の民が着いているんだ。その戦、決しておひとりなんかじゃねぇよ」
その言葉は、深く慶次の胸に届いた。
「……奥州の民、か」
「ああ」
誇らしげに小十郎は胸を張り、それを見ながら慶次は改めて思う。
独眼竜・伊達政宗、こいつは本当に大した男だ。こちらの策に組み入れるのはもはや無理のようだが、それはそれとて背に乗ってみるのは一興かもしれない。少なくとも明日の出立に付き合ってみる価値はありそうだ。
「おい、早くしろ。湯が沸きすぎてるぞ」
促された慶次は思考を止めて、慌てて茶を立て始める。
出された椀に口を付けた小十郎は、顔を顰めて一言「不味い」と吐き捨てた。
【終】