その時ハートは盗まれた
校庭にて
その日から、学校内はいつもに増して賑やかだった。
あちこちで大声を張り上げている生徒や、かなづちの音なんかが聞こえている。まだ秋というには気温が高いせいか、蝉たちの合唱も鳴り止まない。頬から顎に汗が伝い落ちる。
栄口は右手に嵌めていた軍手でそれを拭いた。
このクソ暑いのになにやってんだ、オレ。
何と言っても、ただベニヤ板を運んでいるだけだった。文化祭に向けて着々と準備が進む校内で、栄口のいる1組も、文化祭で上映する劇の準備に追われているのだった。
だるいけど大道具なんてまだマシだよな、劇に出ろとか言われるよりは。
そう自分を納得させて、軍手を嵌めなおして大きなベニヤ板をまた抱え上げる。ああ、模擬店とかやりたかったなぁ。絶対盛り上がるし、恥ずかしくないし。だが一年生で模擬店を出展できる枠は九組中二組だけだった。委員会でくじ引きして決めるのだけれど、確か引いたのは9組だった。田島が大喜びしていたから覚えている。いいなぁ、うらやましい。だけど今日の朝錬で「今日オレ生まれて初めて検便しちゃった!」と田島がそれはそれは嬉しそうに言っていたのを思い出す。飲食物を扱う模擬店は保健所の指導で検便しなきゃいけなかったらしい。うえ、それもいやだなぁ。検便しなきゃなんないなんて考えたらそれだけで下痢りそうだった。ああ、やっぱ大道具でいいや。
校舎横のコンクリートの熱い道を歩きながらぼんやり考えていると、さっき思い浮かべていた9組のもう一人の顔が見えた。三橋だ。おおいと声をかけたのに、上の空で全然聞こえていないらしい。全く反応しない。
「み、は、しー!」
三橋は細い角材を抱えたままなにやら上をぼうっと見つめている。屋台やるとか言ってたから、それの角材だろう。栄口はベニヤを下ろすと、右手を大きく振った。やっぱり気がつかない。
いつもぼうっとしている三橋だったけれど、様子がいつもとはちょっと違う気がする。何より全く気が付いていないのが癪で、栄口は校舎の壁に荷物を立てかけると、そろりと三橋に近寄った。
「三橋!」
「うわっ」
肩を叩くと三橋は持っていた角材をばらばらと落として驚いた。やっぱり全く気が付いていなかったらしい。ごめんごめんとそれを拾い上げて渡すと、三橋は潤んだ目でありがとう、と言いながら視線を上に向けた。栄口もその先を辿るように目を上げた。校舎、の窓。3階か4階か。
「ああっ」
横で三橋が小さな落胆の声を上げている。
「なに、どしたの」
聞くと、三橋はぶんぶんと首を振った。なんでもない、よっ、ってなんでもない顔か、それが。頬も鼻も額も真っ赤で大きな目が潤んでいつもに増してキラキラしている。いつも阿部に怒鳴られて泣いているときとはちょっと違う、不思議な目だった。ほら、なんていうんだ、こういうフンイキ。
「どこ見てたの」
「あ、あの、えっと、あの、教室」
三橋が指差したのは3階の真ん中の教室だった。左から数える。ええと、ということは4組か。3階だから3年。指差した窓にはもう何も特別変わったものは見えなかった。ただ教室の天井が見えるだけだ。
「3年4組の教室? 先輩?」
「3年、生……」
「なにがあったの?」
「あの、栄口くんがくるまえ、黒い髪の」
「黒い髪の?」
「すごくきれいな長い髪の、女の人が」
ああ、と栄口は思った。思い出した、このフンイキの名前。キラキラ目が輝いていて頬が昂揚していて染まっている。空気も一緒にピンクに染まって、触れるだけで暖かくなりそうな、そんな。
「きれいな、横顔が」
キラキラ空気も輝いている。
栄口はごくりと唾を飲み込んだ。ぼんやり空ろな目のまま遠くを語る三橋の肩をぽんと叩く。お前、自分で気が付いてるか?
「一目惚れしたのか」
「ひと……め……?」
動揺した三橋はぎゅっと持っていた角材を握り締めた。短く切りそろえた爪がぎゅうと角材に食い込んでいる。言われた言葉を必死に反芻するように何度も小さく口をぱくぱくさせて、掠れた喉を震わせている。はじめて見たあの人は、きれいな、年上のひと。思い出すだけで心臓がきゅっと痛くなるような想いがする。
「すごく、きれいなひとだった」
恋に落ちるって、こういうことなんだ。
7組
「いーやーだー!」
家庭科室は花井の絶叫で満ち溢れている。
水谷は椅子に逆向きに座って背もたれにだらんとだらしなく上半身を預けたまま喚く花井を見た。ぷぷ、ちょっと笑える。
「喫茶店はいいよ、それはいい。だけどなんでわざわざ女装喫茶なんだよ!」
「だってその方が面白いし」
「面白くねえよ! いや、百歩譲ってそれはいいとしても、なんでオレがウエイトレスなんだよ」
「ジャンケン負けたからじゃん」
「大体どう考えてもオレがやるの間違ってるだろ! こんなデカイ女いるかよ、やるなら水谷のが絶対マシじゃん」
「オレがやったって普通っぽくて面白くないでしょ。こういうのはちょっと外してる方が笑えていいんだよ。なまじっか似合う方が洒落になんなくて面白くない」
それはその通りだった。高校生の文化祭でやるオカマ喫茶に美しさを求める輩がどこにいるものか。こういうのは似合ってないほどいいのだった。例えば柔道部のクマみたいななんとかくんがセーラー服とか着ちゃっていらっしゃいませーって野太い声でお出迎えして客をげんなりさせることこそ真のオカマ喫茶の価値というものではないだろうか。その中に一人二人こましに見えるきれいめな男がいて、普段女子にモテててむかつくなあいつ、とか思っているその男が意外と自分の好みに近い顔とかしててドキッとしたり、いつもそいつにときめいてた女子たちがそのちょっと不恰好な女装にびっくりしたりするのが楽しいのだった。そして花井は間違いなく後者なのだ。だから花井セレクトは決して間違っていない。別にオレが選んだわけではないけれど、と水谷は思う。花井が勝手にジャンケンに負けたんだから単に運の問題だ。つくづく運の悪い男だった。
「大丈夫だよ、頭が悪いんだよ! ヅラ被れば結構いけてるよ!」
妙な合いの手が入って、水谷と花井はきっと同時に声の方向を見た。ちゃっかり机の上に腰を下ろして足をぶらぶらさせているのは9組のはずの田島だった。
「なんでお前がこんなとこいるんだよ!」
「花井の女装見たかったから」
「他のクラスなんだから出てけ!」
次々と7組面子に集中砲火の文句を食らっているのに田島は平然と、いやニヤニヤと花井を眺めている。確かに180センチ超の坊主の男がガニ股でエプロンスカートふりふりピンク。田島じゃなくても見に来たい気持ちは分かる、と水谷は思った。オレも今面白くて仕方ない。
花井はやってきた服飾担当の女子にかぽっと茶色い肩までのストレートのカツラをかぽっと嵌められて黙り込んだ。ううん、ヅラを被るとイマイチだな、ちょっと普通に可愛くて。水谷は目の前のデカイ女を見上げる。いややっぱり面白い。目を白黒させている花井自身がとてつもなく。
「じゃ花井くん脱いでいいよ。もちょっと裾短くするね、スカートの」
「マジかよ!」
「やった、花井のミニスカ!」
「お前は黙ってろ」
「花井こそちょっとは黙りなよ。阿部を見習えば」
その日から、学校内はいつもに増して賑やかだった。
あちこちで大声を張り上げている生徒や、かなづちの音なんかが聞こえている。まだ秋というには気温が高いせいか、蝉たちの合唱も鳴り止まない。頬から顎に汗が伝い落ちる。
栄口は右手に嵌めていた軍手でそれを拭いた。
このクソ暑いのになにやってんだ、オレ。
何と言っても、ただベニヤ板を運んでいるだけだった。文化祭に向けて着々と準備が進む校内で、栄口のいる1組も、文化祭で上映する劇の準備に追われているのだった。
だるいけど大道具なんてまだマシだよな、劇に出ろとか言われるよりは。
そう自分を納得させて、軍手を嵌めなおして大きなベニヤ板をまた抱え上げる。ああ、模擬店とかやりたかったなぁ。絶対盛り上がるし、恥ずかしくないし。だが一年生で模擬店を出展できる枠は九組中二組だけだった。委員会でくじ引きして決めるのだけれど、確か引いたのは9組だった。田島が大喜びしていたから覚えている。いいなぁ、うらやましい。だけど今日の朝錬で「今日オレ生まれて初めて検便しちゃった!」と田島がそれはそれは嬉しそうに言っていたのを思い出す。飲食物を扱う模擬店は保健所の指導で検便しなきゃいけなかったらしい。うえ、それもいやだなぁ。検便しなきゃなんないなんて考えたらそれだけで下痢りそうだった。ああ、やっぱ大道具でいいや。
校舎横のコンクリートの熱い道を歩きながらぼんやり考えていると、さっき思い浮かべていた9組のもう一人の顔が見えた。三橋だ。おおいと声をかけたのに、上の空で全然聞こえていないらしい。全く反応しない。
「み、は、しー!」
三橋は細い角材を抱えたままなにやら上をぼうっと見つめている。屋台やるとか言ってたから、それの角材だろう。栄口はベニヤを下ろすと、右手を大きく振った。やっぱり気がつかない。
いつもぼうっとしている三橋だったけれど、様子がいつもとはちょっと違う気がする。何より全く気が付いていないのが癪で、栄口は校舎の壁に荷物を立てかけると、そろりと三橋に近寄った。
「三橋!」
「うわっ」
肩を叩くと三橋は持っていた角材をばらばらと落として驚いた。やっぱり全く気が付いていなかったらしい。ごめんごめんとそれを拾い上げて渡すと、三橋は潤んだ目でありがとう、と言いながら視線を上に向けた。栄口もその先を辿るように目を上げた。校舎、の窓。3階か4階か。
「ああっ」
横で三橋が小さな落胆の声を上げている。
「なに、どしたの」
聞くと、三橋はぶんぶんと首を振った。なんでもない、よっ、ってなんでもない顔か、それが。頬も鼻も額も真っ赤で大きな目が潤んでいつもに増してキラキラしている。いつも阿部に怒鳴られて泣いているときとはちょっと違う、不思議な目だった。ほら、なんていうんだ、こういうフンイキ。
「どこ見てたの」
「あ、あの、えっと、あの、教室」
三橋が指差したのは3階の真ん中の教室だった。左から数える。ええと、ということは4組か。3階だから3年。指差した窓にはもう何も特別変わったものは見えなかった。ただ教室の天井が見えるだけだ。
「3年4組の教室? 先輩?」
「3年、生……」
「なにがあったの?」
「あの、栄口くんがくるまえ、黒い髪の」
「黒い髪の?」
「すごくきれいな長い髪の、女の人が」
ああ、と栄口は思った。思い出した、このフンイキの名前。キラキラ目が輝いていて頬が昂揚していて染まっている。空気も一緒にピンクに染まって、触れるだけで暖かくなりそうな、そんな。
「きれいな、横顔が」
キラキラ空気も輝いている。
栄口はごくりと唾を飲み込んだ。ぼんやり空ろな目のまま遠くを語る三橋の肩をぽんと叩く。お前、自分で気が付いてるか?
「一目惚れしたのか」
「ひと……め……?」
動揺した三橋はぎゅっと持っていた角材を握り締めた。短く切りそろえた爪がぎゅうと角材に食い込んでいる。言われた言葉を必死に反芻するように何度も小さく口をぱくぱくさせて、掠れた喉を震わせている。はじめて見たあの人は、きれいな、年上のひと。思い出すだけで心臓がきゅっと痛くなるような想いがする。
「すごく、きれいなひとだった」
恋に落ちるって、こういうことなんだ。
7組
「いーやーだー!」
家庭科室は花井の絶叫で満ち溢れている。
水谷は椅子に逆向きに座って背もたれにだらんとだらしなく上半身を預けたまま喚く花井を見た。ぷぷ、ちょっと笑える。
「喫茶店はいいよ、それはいい。だけどなんでわざわざ女装喫茶なんだよ!」
「だってその方が面白いし」
「面白くねえよ! いや、百歩譲ってそれはいいとしても、なんでオレがウエイトレスなんだよ」
「ジャンケン負けたからじゃん」
「大体どう考えてもオレがやるの間違ってるだろ! こんなデカイ女いるかよ、やるなら水谷のが絶対マシじゃん」
「オレがやったって普通っぽくて面白くないでしょ。こういうのはちょっと外してる方が笑えていいんだよ。なまじっか似合う方が洒落になんなくて面白くない」
それはその通りだった。高校生の文化祭でやるオカマ喫茶に美しさを求める輩がどこにいるものか。こういうのは似合ってないほどいいのだった。例えば柔道部のクマみたいななんとかくんがセーラー服とか着ちゃっていらっしゃいませーって野太い声でお出迎えして客をげんなりさせることこそ真のオカマ喫茶の価値というものではないだろうか。その中に一人二人こましに見えるきれいめな男がいて、普段女子にモテててむかつくなあいつ、とか思っているその男が意外と自分の好みに近い顔とかしててドキッとしたり、いつもそいつにときめいてた女子たちがそのちょっと不恰好な女装にびっくりしたりするのが楽しいのだった。そして花井は間違いなく後者なのだ。だから花井セレクトは決して間違っていない。別にオレが選んだわけではないけれど、と水谷は思う。花井が勝手にジャンケンに負けたんだから単に運の問題だ。つくづく運の悪い男だった。
「大丈夫だよ、頭が悪いんだよ! ヅラ被れば結構いけてるよ!」
妙な合いの手が入って、水谷と花井はきっと同時に声の方向を見た。ちゃっかり机の上に腰を下ろして足をぶらぶらさせているのは9組のはずの田島だった。
「なんでお前がこんなとこいるんだよ!」
「花井の女装見たかったから」
「他のクラスなんだから出てけ!」
次々と7組面子に集中砲火の文句を食らっているのに田島は平然と、いやニヤニヤと花井を眺めている。確かに180センチ超の坊主の男がガニ股でエプロンスカートふりふりピンク。田島じゃなくても見に来たい気持ちは分かる、と水谷は思った。オレも今面白くて仕方ない。
花井はやってきた服飾担当の女子にかぽっと茶色い肩までのストレートのカツラをかぽっと嵌められて黙り込んだ。ううん、ヅラを被るとイマイチだな、ちょっと普通に可愛くて。水谷は目の前のデカイ女を見上げる。いややっぱり面白い。目を白黒させている花井自身がとてつもなく。
「じゃ花井くん脱いでいいよ。もちょっと裾短くするね、スカートの」
「マジかよ!」
「やった、花井のミニスカ!」
「お前は黙ってろ」
「花井こそちょっとは黙りなよ。阿部を見習えば」
作品名:その時ハートは盗まれた 作家名:せんり