無音世界
Lost 02. 跫音
振り返った先にいるバーテン服に身を包んだ男は、本日も喧嘩人形らしく此方に喧嘩を売りにやってきた。
手近で調達した標識片手に、静雄はつかつかと足早に此方との距離を詰めてくる。
何かを発するように動く口からは、恐らくボキャブラリーの少ない悪態が吐き出されているのだろう。そう、最後に推量の助動詞を用いた訳は、静雄の声がまるで臨也の耳に入ってこないからであった。
静雄が臨也との距離を詰めれば詰めるほど、先ほどまで遠ざかっていた喧騒は自分の耳に正常な音量で入ってきてくるようになった。ところが、明らかに距離を短くしているはずの静雄の声だけがそっくり抜け落ちているのだ。近い音が聞こえず、路地の向こう側にある大通りのざわめきばかりが聞きとれる。距離感が視覚と聴覚とでは正反対な状況に、臨也は気味が悪くなってきた。
――ちょっと待ってよ、どういうこと?
自分でも訳が分からず混乱するばかりである。
彼の声を忘れた訳ではない。つい昨日だってこの池袋の街で逃走劇を繰り広げたばかりだ。忘れもしない。苛立ちを隠そうともしない怒鳴り声。静雄のそんな声を誰よりも多く聞いているという、良いのか悪いのか喜ぶべきか悲しむべきか分からないが自覚はある。
臨也に対する静雄の声は決して彼の弟や上司に対するものとは非なるものだ。自業自得でもあるが、しかし、臨也はいつだって罵声しかもらえない。自分の中で聞き覚えのある静雄の声質は決して多くなかった。それを寂しいとか悲しいと思っては、いいや、そんなことは今どうでもいいのだ。
要するに聴覚が可笑しいとわきまえておかなければならない。これが確かなこと。眩暈は分かるが難聴になどなったことはない。一体どうすれば治ると言うのか。
果たしてあの学生のころからの付き合いを持つ闇医者は耳鼻科も専門だろうか。
そんなことを思いながら、身の異変を自覚した臨也は、狼狽を表に出す代わりに後ろへ一歩足を引いた。
すると、次の瞬間静雄の得物と化した標識が、臨也が一歩下がる前であれば明らかに直撃していただろう箇所を横切る。予測していたわけではないが、結果として一歩後ろへ身を引いたのは正解だった。
目と鼻の先を飛んでいった凶器に臨也は面喰う。そのせいなのか、やや勢いよく身を引きすぎたのか、思わずたたらを踏んでしまった。
避けられたと分かると静雄は、バランスを崩した臨也の姿を逃すことなく、先ほど振りきった標識を今度は臨也の足に向かって振りおろしてくる。
臨也は表情を強張らせたが、どうにかその場で跳躍。
振りおろされた標識は地面に叩きつけられぽきりと折れた。
だが、得物が使えなくなったところで諦める静雄でもないと臨也はよくよく分かっている。やはりというか、当然というか、標識は折れ棒だけが残ったそれを静雄は捨てると、今度は拳が襲いかかってきた。
それこそ冗談じゃない。
コートのポケットからナイフを取り出す間などなかった為に、臨也は迫ってくる拳を寸前の所で往なす。できればそのまま伸してしまえればいいが、生憎躯の調子は耳の様子にあわせてどんどんと悪く一方であった。
臨也は舌打ちを打つ。恐らくこのままだと自分はすぐにやられてしまうだろう。まともに正面からやり合うことはできない。そう判断した臨也は、突っ込んできたままで体制を直しきれていない静雄の背に回った。そして力いっぱいその背を突き押すとその場から脱兎の如く駆けだす。
一先ず静雄から逃げ切ることが先決。それから新羅のところへ。
後ろから猛り立つ声は愚か、気付けば先ほどまでは聞こえてきた街の喧騒さも再び聞こえなくなってしまった状態で、珍しく情報屋は路地を右へ左へと曲がりながら逃げまどった。
正直、音が聞こえないということがこれほど不便だとは思わなかった。
追って来ているはずの静雄の声は聞こえない為に、どれほどの距離を稼げたのかも分からない。いつもであればこれぐらいの距離を走る程度ならば息も殆ど上がらないのに、今日に限っては例に漏れず荒い呼吸となっている。
――嗚呼、忌々しい!
きっとこれはシズちゃんのせいだ、と臨也は原因を探る前から勝手にそう決めつける。
裏道を駆け抜けながらも、頭の中で広げた池袋の地図で逃げ切るルートを素早く決める。臨也は次の角を曲がろうと進路を決め、道を折れた。
しかし、曲がった瞬間立ちはだかっていた何かに真正面から臨也はぶつかってしまう。反射的に瞑った瞳を開けて、悪かったとおざなりにも謝ろうと臨也はした。ところがそうする前に臨也は強かに路地を作っている壁――どこのものともわからないビル壁に躯を打ちつけられてしまう。
臨也の口から思わず呻き声が漏れるが、実際はそれを彼は聞きとれない。
――嫌な予感しかしないんだけど……。
ひしひしと正面から感じ取ることのできる威圧感に臨也はのろのろと双眸を開ける。すると、予感は見事的中。路地を入り組ませて走っていたせいで後ろの静雄と巡り巡って鉢合わせてしまったのか、それとも待ち伏せされていたのか。目の前には、両手を壁に付けて臨也が逃げられぬように自らの躯で仕切る静雄がいた。
背筋を嫌な汗が流れる。
静雄はいつもであれば一度振りきって逃げた臨也を再び捕まえることができない為か、今の状況にご満悦らしい。サングラスの向こう側にある瞳は血走っているが、その口元は弧を描いている。そして恐らくこの至近距離であれば鼓膜がどうにかなってしまいそうな大声で静雄は臨也に対して暴言を吐いているのだろう。唇は言葉を紡いでいるように見えた。
普段なら例え捕らえられても、その場で静雄の言葉尻から揚げ足をとってやるのに、それができない。
こんなことなら読唇術も習っておけばよかった、と臨也は今になって思う。
身長差のせいもあって上から見下ろされているのも気に喰わなくて、唇を噛みしめながら視線をずらした。
どうにかしてこの状況から抜け出そうと、臨也は案を模索する。だが、考えることによって臨也はあることに気付いた。
先ほど音が聞こえないのは不便だと気付いたが、それは同時に臨也の武器の一つである言葉やそれを音に変える声も使えないということに等しかった。
言葉は発声するかもしくは文字等で記すことで初めて相手に伝わる。頭や心で思っていても、それは相手には分からない。
分かっているから、臨也は喉がやられてしまうことには危機感を抱いていた。しかしそれでも、この場合ではまだ文章のやり取りはできる。筆記と言葉と視覚があればすむ。家に籠っていても、インターネットの発達した現代ならばメールで仕事を済ませることもできる。
ところがだ。そこまで分かっているのに、視覚という五感の一つが文面でのやりとりに必要だと分かっているのに、何故だか発声と言葉と聴覚の組み合わせに対しては、臨也はすっかり失念していた。例え話すことができても、聞きとれなければそれは一方的でしかない。