君と僕の六ヶ月
§
「どういうことだよ、それ」
「さ、最初からの約束だったんだ」
祖父の経営する学校を出て別の公立高校に入学することは、当然親族の反対にあった。まさか野球部で苛められてるとも言えず、それでも必死に一年だけでいいからと縋りついてようやく実家に戻ったのだった。約束の一年が過ぎれば否が応でも戻らなければならなかった。
「オレ、ずっと言わなきゃ言わなきゃって思ってたんだけど、や、野球部すっごく楽しかったし、阿部君いるし……言えなかった」
しゃくりあげながらたどたどしく言葉を繋げる三橋の肩を、阿部は怒りと驚きで混乱したまま強く押した。
「なんでだよっ、親戚がなんだっていうんだよ、お前もう高校生だろ? 自分の意思で……」
「だめだよ……うちの親、ただでさえ駆け落ちで肩身狭いんだ、もん。オレがもしわがまま言ったら」
きっとお母さん困っちゃう、よ。
子供なようで大人な言葉に、阿部は溢れる言葉を飲み込んだ。もう高校生なんだと、大人ぶってわがまま言っているのはどっちだ。だけど今、この手の中にある体を離したくない。阿部はぎゅっと濡れた体を抱きしめた。その胸の中に顔を埋める。きつく、きつく、まるでお互いの体が一つになるかのように、腕の力を込める。
泣いているところは見られたくなかった。
「阿部、もうバス出んぞ」
ぼうっと白い空を見上げていると声が掛かる。阿部が振り向くと頭にタオルを巻いた花井の姿があった。
阿部は頷いてバスに乗り込む。ぐるりと見回すとこの間入ったばかりの一年生たちが前の方に座っていて、阿部の顔を見て慌てて頭を下げた。その後ろで大口を開けて笑っている田島。釣られて笑う栄口と沖。西広も笑っている。黙ってウォークマンのコントローラーを弄っている水谷。目を閉じているのは巣山と泉。篠岡は志賀と何やら耳打ちをしている。
なのに三橋はいない。
早く入れと後ろから花井に突付かれて、阿部は黙って一番奥から二番目の席に腰を下ろした。花井もその隣に座る。今年の合宿もやっぱり群馬との県境の山の中だった。動き出したバスが北へとどんどん進む。あの日と全く変わらないのに。
「早いな、もうあれから一年か」
花井の言葉に小さく阿部は頷いた。
あれから半年、初めてキスをしてから6ヶ月。あっという間の時間だった。
結局三橋は最後まで皆には転校の話を切り出さなかった。三橋が言わないから阿部もやっぱり言わなくて、突然の話に皆は泣き出したのにあの泣き虫の三橋は最後の日、結局一粒の涙も零さなかった。強いな、と褒めた阿部の胸に頭をごつ、と預けて三橋は言った。
「もうあの日全部出しつくしちゃったから」
三橋の言うあの日、泣きつかれた三橋をベッドに置いて、阿部は外に出た。もう空は東の方がうっすら白んでいる。いつかの公園までぶらぶら歩いてたどり着く。
見つけた緑のベンチに座った。あの日座ったのと同じ場所に腰を下ろして見上げる。空の天辺はまだ暗くて、小さな星がいくつか瞬いている。
あれ何の星かなぁ、金星?
三橋の言葉が蘇る。見上げた空の端の方には、確かに金星みたいな星が一際明るく輝いていたけれど、滲んでしまってよく見えない。明るい光も夜空に溶けて真っ暗だった。
「卒業したら、会いに来ていい?」
いつの間にか三橋が後ろに立っていた。顔を見なくても分かる。だから見上げた顔を戻さないまま、阿部は呟く。
「夢ならいいのにな」
三橋はぶんぶんと首を横に振った。冷たい手を阿部の頬に当てる。熱く火照っていたからか、気持ちがいい。目を閉じると、背後から覆いかぶさるように、三橋の暖かい唇が額に触れた。三橋の柔らかい前髪がさわさわと鼻に触れて蕩けそうなほど心地良かった。
「夢じゃない、んだよ」
その濡れた感覚を、決して阿部は忘れない。
もうちょっと、自分で自分を動かせるぐらい大人になったら会いに来るから。また野球しようよ。オレ、ずっとずっと野球続けるから、阿部君がいなくてもきっと投げるから、だからいつか、きっと、絶対。
いつの間にか金星は朝の光に溶けていた。鳥の囀りが小さくこだまする。朝の光が公園に満ちて、立ち込める朝靄の中、二人手を繋いで帰った。ずっと忘れない。
阿部はあの日痛いぐらいに握り締めた三橋の手のぬくもりを思い出すように手のひらを摩った。じんわりと手のひらが温度をよみがえらせるように熱くなった。
「今年の一年も、結構いいよな。ピッチャーとかも、まぁ三橋と比べると可哀想だけど」
「オレのピッチャーは三橋だけだよ」
ボソリと呟くと花井は複雑な顔をするから、阿部は笑って手を振った。
「嘘だよ。……なんだよ、言えよ。お前の笑顔は気持ち悪い、だろ?」
「今の顔は、なんか哀しいよ」
「ウルサイ、花井こそ気持ち悪い」
坊主頭にヘッドロックをかますと、花井がいたいたたたと笑いながらもがく。後ろで水谷と田島がそれを見て笑っている。一人いなくなってもまた新しいメンバーが増えて回っていく。それが嬉しいけれど、阿部は悲しかった。
ちらりと横を見る。
「眠れなくて……」
非常口の横の座席に、青い顔をしてベソをかいている三橋がいた。はっとして目を擦るとやっぱりそれは幻で、座席には誰も座っていなかった。
車はどんどん走り続ける。