callingcalling
扉を前にして、俺はそれを蹴り倒そうかどうか少し悩んだ。しかしさすがにはじめて訪ねるのにそれは常識を欠いた行動かと思い直しておとなしくチャイムを鳴らす。返事はなかった。そう、とノブに手をかけるとそれはあっけなく開いた。すこしおどろいてしばらくのあいだ扉を見つめる。「・・・臨也、いんのか?」声をかけながら玄関に足を踏み入れる。むわ、と湿った空気が俺を襲う。中は淀んでいた。しばらく人が入っていないような様子だ。照明などもひとつもついておらずまっくらだった。「・・・臨也?」しんと静まり返った部屋を見渡して俺は言葉を失った。部屋はむちゃくちゃに荒らされていた。まともなものがほとんどない。「臨也、いるか?」もう一度呼びかけてみるも返事はない。ひっくりかえった机のすぐそばに高級そうな灰皿が落ちていた。その中に入っていたと思われる吸殻が床に無数に散らばっている。臨也は煙草を吸わない。何人もの人間がここで煙草を吸ったと考えるのが妥当だった。
そのまま扉まで引き返したところでカンと音がした。外からだった。ばっとそちらへ顔を向けると驚いた顔をした臨也が肩を押さえて立っていた。着ている服は部屋と同じくめちゃくちゃで、顔は傷だらけだった。口元には血がにじんでいる。足は、なぜかはだしだった。臨也は、すぐに顔を引き締めると、瞬間身をひるがえした。エレベーターは遅いと判断したのか、階の端にある非常階段を猛然と走り降りていく。しかしその足は不自由そうに引きずられていた。俺もそのあとを追いかける。下まで降りたところで、その姿を見失った。しかし俺はいままでの経験上、こういうとき臨也はそう遠くへ行っていないことをしっていた。遠くへ行ったと思わせておいて近くに身を隠しているのだ。その場所はすぐにわかった。俺がそちらへ近づいていくとそれを察した臨也はどこにそんな力が残っているのか信じられない速さで路地裏へと走り込んで行った。そのまま後を追おうとしたとき、スラックスに入れた携帯から着メロが流れた。津軽海峡冬景色。反射で通話ボタンを押す。
「・・・来ないで」耳に掠れた、しかし聞きなれた声が聞こえた。
「臨也?」
「来ないで、ぜったい来ちゃダメだよ。もし来たら俺はシズちゃんを抹殺する」
物騒なセリフ吐いてんじゃねえよできもしないくせに、浮かんだ言葉は喉の奥に押し込んで、俺は足を止めたまま臨也が消えた路地を見つめる。雰囲気からして行き止まりだろう。
よりにもよってそんなところに逃げ込むなんて。臨也らしくもない。先ほど見た驚愕に見開かれた目とぼろぼろの服、そして傷だらけの顔を思い出す。
「・・・なにがあったんだ」
「・・・べつにィ?シズちゃんにはなんら関係のない話だよ」
「関係ねえはねえだろ」
「関係ないじゃん」
「・・・・・・」
「・・・ちょっとミスっちゃってさ。それだけだよ」
「それでなんで部屋があんなことになんだよ」
「やだなぁシズちゃん、不法侵入だよ」
「うるせえ。どんなミスしたらあんなことになんだって聞いてんだよ」
「ちょっとしたミスをしたら、だよ」
「うぜぇ!」
ちがう。俺は、俺はこんなことが言いたいんじゃなくて、
「家、帰ってなかったろ」
「・・・・・・」
「なにがあった、・・・いやちがう、だれに、」
なぜ俺はこんなにも苛立っている。俺は、いったいなにが聞きたい。わざわざ新宿くんだりまで来て、臨也に、なにを。臨也がけっして俺に真実など話すわけもないとわかっているくせに。
「・・・はは」臨也が乾いた笑い声を上げた。
「はは、はははは、あはは、・・・シズちゃんさ、いったい俺になにを聞きたいの」なにを、しりたいの。臨也の口唇が電話越しに低く呟く。
「俺がここで、こいびとに遊ばれてぽいされて手下のひとにリンカンされたりしました、って言ったら満足なの?シズちゃんさ、・・・なんなの?」
掠れた声が強い調子になって、折れた。ぽきりと、音がしたような気がした。
「俺になにがあったってシズちゃんなんかに関係ないだろ!そうさ、シズちゃんになんかこれっぽっちも関係ない。なのになに?まさか弱味でも握ろうってわけ?」
「俺は・・・」
「なら教えてやるよ、こんなの弱味でもなんでもない。大体シズちゃんに情報をあやつる能力があるとはとても思えないしね。・・・ははは、そうさ、俺には恋人がいたよ。わざわざDVまで奮ってくれるやさしいやさしい恋人がね。それで捨てられて部下のひとたちに乱暴されて監禁されそうになったから、逃げてきた。・・・はは、すごく刺激的な体験だったよ。俺はすごい果報者だ。いままで情報としてしかしらなかったことを実際に体験できたんだからねえ・・・実際は想像をはるかに超える。・・・はは、これだから人間はたまらない!
俺は人間を愛してやまないよ。あは、あははははは、ははははははは!」
「臨也!」
もういい、そう低く叫ぶと受話器の向こうでふ、と臨也が口をつぐむのを感じた。
「は、・・・軽蔑した?」
「・・・いまさらだろうが」
「・・・シズちゃん」好きだよ、息にまぎらせるようにして臨也がささやく。俺は、その瞬間、呼吸が止まるのを感じた。胸に怒りがこみあげて、すぐにいっぱいの悲しみに変わっていく。そんな嘘、俺にだってわかるようなそんな薄っぺらい嘘を。吐かなきゃならねえほどいまおまえは追い詰められてるとでも言うのか。いつだって、なにがあったって余裕だと言いたげなむかつく笑みを浮かべているくせに。いまおまえはその笑みさえ。
「・・・嘘吐いてんじゃねえよ」
「うそじゃない、うそじゃないよ」すき、シズちゃん、すき、すきだよ、あいしてる。臨也の声が受話器越しに俺に降りかかる。
「・・・臨也」
「すき」
「・・・臨也ァ」
「すきだよ、シズちゃん」
「臨也、」臨也、臨也、臨也臨也臨也臨也臨也臨也、イザヤ、イザヤ、イザヤ、イザヤ、
すき、すき、すき、受話器の向こうで掠れる声に縋りつく。
そんなものが聞きたかったわけじゃないのに、ただ、いま俺は、そのくちびるから嘘が剥がれ落ちていくのを、ただひたすらに待っている。
作品名:callingcalling 作家名:坂下から