この場所に帰ってきたら、
「ねえ、陽日先生」
「なんだー水嶋センセ」
あくる日の放課後。まだ明るい時間にも関わらず、校内には人影がなかった。
通常ならサッカー部やら弓道部が日暮れ直前まで活動し、それでなくても勉強熱心な生徒が先生に質問しに残っている。
しかし、今日に限っては皆寮に戻って校舎は静まり返っていた。
それもそのはず、四月初め。本日は始業式である。
「先生のクラスに、あんな綺麗な奴いましたっけ?」
「綺麗な奴?」
保健室の“玉座”に腰掛け、足を組む長身眼鏡の男性。おもむろに強い癖の髪を指で弄りながら、ソファーの方を若干見下ろしている。
そこには若干小さいジャージ姿の男性が湯飲みを手にしていた。
「ほら、赤い髪に赤い目の」
「ああ土萌のことか」
「トモエ?」
不思議そうに顔をしかめる郁に、直獅は意気揚々と説明し始める。
「水嶋センセが教育実習で来る前、三月くらいからだったかなー。三ヶ月限定でフランスから転校してたんだ。その土萌羊が、また日本に来たって訳」
「どうして三ヶ月なんて短い間、わざわざフランスから」
「それは俺もよく知らないんだけどねー……」
「ふうん」
朝、天文科に顔を出した際、目に止まった生徒。一見では二人目の女子生徒が入学したかと思い、驚いたものだ。しかし細い足ながらスラックスを履いていることと、声を耳にして男であると確信した。
頬杖をつきつつ足を組み換えると、直獅の視線がやけに気になった。
「なんですか、僕の顔に何かついてます?」
「いやー……水嶋が男子生徒の話するなんて珍しいと思ってさ」
その指摘に、郁は思わず目を見張る。
確かに女子生徒ならともかく、男子生徒について考えることなど今まで無かった。最初は女だと思ったかもしれないが、男だと分かった時点でもうどうでもいい、はず。
「そうですかね……」
泳がせた郁の目が、窓から寮を捕らえていた。
+++
その頃、寮の一部屋ではハーフ顔の青年が目を伏せ、ベッドに転がっていた。
トランクから飛び出した荷物を放置し、そのまま朝の出来事を思い返している。
ちょうど一年前のように、黒板へ書かれる名前。
変わらず、友の中に刻まれた日本名を眺めながら、羊はハキハキと自己紹介をした。その瞬間上がる笑顔と歓声。その中にある、一際懐かしい三つの顔に思いっ切り笑いかけた。
高三の春、どうしても寂しくなり無理を言って戻った日本。天文の研究が一段落したこともあり、何とか両親を説得できた。それ故、この喜びも一入。
また前のように夜久月子の隣に座り、一言二言声を交わす。そんな何気ないことに、幸せを感じずにはいられなかった。
しかし驚いたのはそのすぐ後。また歓声が上がったのだ。席から、やけに長身の青年が現れ我が物顔で教卓に触るのが見えた。
口を開くと、飄々としたトーンの声が響く。
「今年から星月学園三年天文科の副担任になりました、水嶋郁です―――って、みんなもう知ってるよね?と、言うことで皆今まで通り程よく宜しく」
薄い笑みを浮かべながら慣れた様子で教室中を見渡している。その最中、目と目が合わさる音がした。
郁から発せられる視線が好奇のものだと知った頃には、郁の視線は遠くへ横切っていた。別に大したことではないはずなのに、キャラメルのように頭へ張り付いて離れない。
結局そのまま休み時間になっても不可思議なものを呑み込んだ顔をしていたらしく、友人二人に声を掛けられた。どうやら半分心配してくれているようだ。
「羊どうしたんだ~眉間の皺、取れなくなるぜ?」
銀髪を鳥の巣のように固めた七海哉太が、からかいを含めた口調で視界をうろついた。
「うるさいなあ、何でもない」
「本当に何でもないのか?」
どうやら自分でも気が付かない程顔をしかめていたらしく、母親のような調子で東月錫也が顔を覗き込んで来た。
「大丈夫だって、ただ……水嶋、先生って僕がアメリカに行った後に来たんだよね」
「ああ、捻くれてるけど結構良い先生だぜ」
「哉太に捻くれてる、なんて言われるようじゃ相当捻くれてる先生なんだね」
「それどういう意味だよ」
さらっと言って退けた上に絡む哉太を笑いながら、羊はまた‘水嶋先生’に意識を戻した。人を小馬鹿にするような軽い口調。第一印象として、やはり軽そうだと思った。もしかすると、自分の一番嫌いなタイプの人間かもしれない。
無意識のうちに警戒心を抱きながら、さらに羊は哉太と錫也の話を聞く。
「後は……あ、月子のことを‘月子ちゃん’とか呼んでたな。あれは生け簀かねえ」
哉太の喋る調子が、見て分かる程に厳しくなった。錫也もあからさまではないが、気にするように一文字の口で頬杖をついている。勿論羊はもっと過剰に反応する。
「彼女をそんな風に呼ぶの!?」
これで羊の中での‘水嶋郁’は、要注意人物どころか危険人物にまで成り下がってしまった。普段の彼なら噂だけで人物を推量するのはどうか、と思うところ、月子が絡めば話は別のようだ。
そのせいで、郁を気にしていた原因の一つの言及を、完全に忘れ去ってしまっていた。
何故郁と目を合わせたとき、あんなにも胸の痛む思いをしたのかを。
+++
羊にとって屋上庭園は食堂と同じくらい好きな場所だった。
どっちが無くなって困るかと聞かれれば、空腹の方がよっぽど生存の危機。だから実際は食堂の方が好きなのだろうが、星も捨てがたい程に大好きだ。
変わらない春の空を、手摺りにもたれて眺める。
まだ寒く上着が必要なのに、時折吹く風には春の匂いが混じっている。星座を繋ぐ線を追い思考を巡らせる。そして、たまに全体を見回してみる。アメリカから見た夜空も同じはずなのに、どこか違って見えた。
星座早見盤を覗こうとしたその時、風に乗って歌声が羊の耳に届いた。
静かな春の夜、集中するとすぐ音の方向を聞きあてることができた。屋上庭園の丁度反対側。プラネタリウムドームの近くから聞こえてくる。
誰がいようと関係はないのだが、そのまま天体観測を続けるには気になりすぎた。すぐ戻ろうと荷物は置きプラネタリウムドームの正面にまで寄る。するとやはりその裏から声はするらしく、羊の好奇心を掻き立てた。思い切って、顔を出してみる。
特徴的な背丈と癖毛。朝のこともあり、考える間もなく誰だか分かった。先程の羊と同じように手摺りを握り、鼻歌。上手いな、と羊は率直に感じる。
そして声は綺麗なのに、何故か違和感の残るものだった。正体が確認できたのだからもう用はないはずが、顔を出したまま離れられない。
朝教室で見た彼とは、何かが丸で違った。飄々と軽い要素がなく、むしろその反対のものに取り付かれているかのように―――
「だれ?」
不意に歌が止む。突然のこと羊の背は縮み上がったが、冷静でもあった。反射的に顔を引っ込めてから、ゆっくり覗き直す。
「別に取って食おうって訳じゃないよ、だれ」
そのままいなくなることも出来たが、羊の足はそれを許さなかった。考えるよりも先に、身体が前のめりになる。姿を現すと、青年は一瞥しただけで顔を緩めた。
「君か……土萌、だっけ」
作品名:この場所に帰ってきたら、 作家名:そうまよしあき