彗クロ 2
2-8
黒一色に塗り染められた瞼の裏側で、燦然たる光芒が光の粒を振りまきながら天上をゆっくりと駆けていく。
ぐわん、ぐわん、と、原初の音が脳天で渦を巻く。
殺すことが怖いなら。
「――人を殺すことが怖いなら剣なんて棄てちまいな、この出来損ないが!」
***
後頭部をフルスイングでどやしつけられたような衝撃だった。
眦が裂けるほどに見開いた瞳に映るのは、空気の読めない青い空。視界の端には、鮮やかな獣の毛皮。心臓が飛び跳ねる。
そろそろと両眼を横に流す。巨大な犬歯が目前を席巻した。
ライガは、仰向けにひっくり返ったレグルの顔の真横で、獰猛に牙を剥いたまま絶命していた。
巨体の喉元に潜り込んだ両手が震える。
レグルの身体は胸までライガの死体に覆われていた。ほとんど全身を巨体にのしかかられた状態ながら、痛みや圧迫はあまり感じない。
地面と死体の間に、レグルの身体を支えるだけの隙間ができているのだ。
生暖かな余熱の下で柄を握り締めたまま取り残された指を、一本一本苦労して引き剥がす。肘を立てて逃げるように自力で背後に這い出そうとすると、力を込めるより先に青年の手によって力強く引っ張り出された。耳元に安堵の吐息がかすめる。
その横で、不意に伸ばされた別の手が、力を失ったライガの鼻面に触れた。キィン。一瞬、ほんの間近なような遥か彼方のようなどこかで、耳鳴りめいた音がした。
次の瞬間には、巨大な消しゴムをかけたかのように、ライガの存在はかき消えていた。
一瞬前まで死体があったその場所には、黒光りする刀剣だけが取り残されている。
切っ先で天を指し、拡散していく余剰音素をまとわりつかせたまま直立している脇差。名匠が拵えたというこの一刀こそが、野獣の喉を貫き、絶命せしめた凶器だった。この刀が短いながらにつっかえ棒の代わりをしてライガの巨体を支えたからこそ、レグルは無傷で済んだのだ。
ほどなく音素の輝きが完全に尽きると同時に、黒い刃は横倒しに倒れ込んだ。カラカラと乾いた音が刀身に反響した。
レグルは呆然と、ライガの死体が消えたその場所を凝視した。
音素乖離――
「レプリカ……だった、みたい」
たどたどしく鼓膜を揺らした呟きに我に返り、レグルは隣を見返った。
膝に手を当て腰を曲げてレグルを覗き込んでいるルークの目線は、気遣うような色もなく、ただじっとレグルの右手に注がれている。そうして初めて、レグルも、地面についた自分の利き手に神経を向けた。
震えが止まらない……
とっさに膝元に引き寄せ左手で押さえ込むが、骨の髄から響いてくるような忙しない痙攣は、いっかな治まる気配がなかった。
切っ先が毛皮を裂き、肉に食い込んでいく、あの生々しい感触がこびりついて離れない。
レグルはこの日まで、作業用や食用のナイフ以外の刃物を持ったことがなかった。人間はもちろん、魔物を斬ったことさえ、なかった。
光を失った獣たちの無機質な眼差しが、意識の隙間を縫って浮上してくる。
レグルは慌ててかぶりを振った。後ろ暗い気持ちを追い出すために、必死に別方向へと思考を働かせる。思いつくまま呟いた。
「どうしてライガが、こんな南に……」
ライガの主な生息域はルグニカ以北と言われる。川一本跨いだパダン以南ではライガが捕食できる魔物が少ないのだそうだ。チーグルの天敵のことだから、以前メティに一通り調べさせて得た知識である。
出し抜けに白い銃身がにゅっと視界の端から突き出された。速やかに先端に第七音素が灯る。銃口を突きつけられるのは何度やられてもいい気分はしないが、忘れていた痛みがぶり返すにつれて治癒術のありがたみが身に沁みる。
「生息域が南下しているらしいね。三年前の騒動で地形も変わって、マルクトに限らず世界規模で魔物の個体数や勢力図も大きく変動しているんだ。それにしても驚いたな、ライガってだけでも珍しいのに、レプリカの、しかも音素乖離の瞬間にお目にかかれるなんて」
うんちくを嘯くアゲイトの口調はいかにも呑気だ。レプリカ相手に披露するにはデリカシーに欠ける余計な一言がついてきたが、ひとかけらも悪意がないぶん始末に悪い。
レグルはむしろ、その言葉の内容に引っかかりを感じ、反発するのを忘れて思考に没入してしまった。
(レプリカ……?)
確かに、ルークはそう言った。
ありえないことではないだろう。大悪党ヴァンデスデルカは人も魔物も見境なしにコピーして世界中にばら撒いたのだ。
レプリカは基本的に第七音素単体で構成される。第七音素は互いに強く引き合う反面、結合状態からたやすく分離しやすい性質を持つ。すなわちこれが音素乖離。第一から第六の音素が複雑に絡み合って形作られた通常の物体に比べると、レプリカの肉体は格段に乖離を起こしやすいのだ。
乖離した物質は、目視の上では空気に溶けるようにして消える。まさしく雲散霧消。もちろん、構成音素がほどけて散逸するだけのことで、音素自体が消えてなくなるわけではない。とはいえ、一度散逸した音素が自然環境下で再び同じ形に凝集することはまずないので、結局のところ物体としては消滅と同義だ。
レグルも自分の爪や髪で散々目にした現象だ。死体の乖離は……さすがに、初めて見たが。
襲ってきたライガが、たまたまレプリカだった。それだけのこと。頻繁ではなくとも、十二分に想定しうる確率だろう。
――けれど。
レグルはライガが消えたその場所をぼんやり見つめた。理解はできても、ふわふわ漂う違和感の上に漠然とまたがって、いっかな腑に落ちてこない。
死体が消える寸前、確かに、小さな手が触れた。どうしてもその場面がリフレインする。
あの時感じた、五感の外側で軋むような異音は……
「あっ。……まずいな」
不意に飛び込んだ独白に、レグルは反射的に思考を中断した。
横を見れば、片膝をついた薬売りが上向けた銃口を注視しながら難しい顔をしていた。音素銃の先端に灯る癒しの光は、ひどく不安定に明滅を繰り返している。
「どうかしたんですか……?」
レグルを飛び越えてルークが訊ねた。
薬売りはすぐには答えず、完全に輝きが消えてしまった銃を水平に持ち替えて、ううんと歯切れ悪くうなった。グリップの付け根に嵌め込まれている宝石の周囲を、神経質に指でなぞっている。
「……貯蔵していた第七音素が切れかかってる。困ったな。次の自治区までもてばいいけど……」
「おい待てよ、なんでそこで自治区が出てくんだよ」
聞き捨てならない単語に、レグルは不穏に眉間を引き締めた。
一般的に自治区と言えば、レプリカが割り振られた特別居住区域を意味する。歴史も、誕生の方法も、精神の構築過程も異なる別種の生き物と共存するために、人類が第一に実現させた苦肉の策だ。この近辺では川岸のフーブラス自治区が最寄に該当する。
そして、レプリカの構成音素と言えば――
「……てめぇまさかっ」
「うん、第七音素を分けてもらうんだ。散髪代として」
「散(サン)――!」
我が意を得たりとあげかかった糾弾の内容を一瞬冷静に吟味して、レグルは眉をひん曲げ、呑み込みかけた語尾をそっと落とした。
「……髪(パツ)?」