彗クロ 2
ルークの椀はすでに空だ。それとなく「食べ物は無駄にしないように」と釘を刺したのが幸いしたのか、匙は単調ながらも進んだようで、それだけは何よりだった。
「……夢、うつらないかな?」
「え?」
「俺の夢、レグルに感染ったら、やだな……」
唯一無二のはらからを見下ろす瞳は、アゲイトからは見えない。少年たちを死角に隠す小さな背中からは、感情と呼べるものは読み取れない。
アゲイトは笑みを維持したまま、缶に蓋をしつつ思考を回す。奇妙なことだが、相当に繊細な言葉選びの必要性を感じていた。
初対面の人間の無責任な発言ひとつで、きっとこの少年の心は、簡単に壊れたりはしないだろう。
だが、このあまりにも脆弱な……茫漠、曖昧たるあえかな佇まいを思えば、たとえ言葉ひとつでも、今しもかき消えてしまっても不思議ではないこの存在を繋ぎとめておく努力を怠るべきではない。そう思えるのだ。
腫れ物に触れる態度では、幻想は現実に固着しない。
必要なものは、完膚なき現実であり、真実。ただし、絶望であってはならない。
未来と希望に繋ぐために。
「――君が休息を嫌って徒に衰弱することを選ぶなら、レグルの未来はその場で確定してしまだろうね」
「……うん」
「眠っておきなさい、今は。それが、頼ることを決めた相手への礼儀というものです」
「…………うん。……ありがとう」
人形遣いの糸が丁寧に緩められていくように、小さな身体が背中からゆるりと寝袋に沈んだ。仰向けになった瞳は無機質に見開かれたまま星空を映していたが、うっすらと黒ずんだ目元を見れば、肉体の疲労に導かれて眠りに落ちるのも時間の問題だ。
小さな安堵に肩を下ろし、アゲイトは機嫌良く作業に戻った。手元の缶をひっこめ、新しく別の保存缶を取り出す。蓋を開けると香ばしい匂いが鼻腔を刺激した。
「俺が」
小さな呟き。
「まもらないと、俺が」
視線を転じた時にはもう遅かった。緑色の瞳は、白い瞼の向こうに隠されてしまっていた。
似たような寝顔を並べて眠る子供たちを見下ろしながら、アゲイトは得意の笑みが剥がれ落ちてしまった頬を、ままならぬ筋肉をほぐすように掻いた。頃合を見計らったように音を立てて主張し始めた薄ミルク色の湯に、コーヒー粉をさらさらと落としていく。分量は多め。あっという間に琥珀色が飽和し、一夜を大禍なくやり過ごすための睡眠抑制剤に早変わりだ。
カップに移したカフェオレの、頬を射す温かさにひとごこちつきながら、ふともう一度、少年たちの寝顔を盗み見る。
瓜二つの――生きていることさえ疑わしく思えるところまでそっくりな……けれど、やはり決定的にどこかが違う、深淵の眠り。
見分けは完全についている……本当に?
「……ルーク・フォン・ファブレ、か……」
ひとりごち、一口すする。ミルクの存在感も消し飛ばす過剰な苦味に、慣れない皺を眉間に寄せながら、アゲイトは上目遣いに濃紺の空を見上げる。湯気に曇った片眼鏡越しに見える星図は、大地の異常もそ知らぬ平常運行。
数百年に一度邂逅するという訪れ星は、何れの空に現れるのだろうか……
(三章につづく)