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彗クロ 2

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2-14(8/2更新)



 夜の河川敷は静謐だった。季節柄、水量が少なく流れも穏やかで、清涼な水音は心地よく眠気を誘う。通年温暖な気候とはいえ、さすがに冬も半ばとなれば虫たちもおとなしいものだ。
 あるいは彼らも、人より遥かに優れるとされるその知覚で、言い知れぬ大地の異変を感知して身を潜めているのかもしれない。
 念入りに漱いだ鍋に改めて清水を汲んで、アゲイトは立ち上がった。遠く視線を馳せ、なんとも言えない吐息が漏れる。
 フーブラス川の北岸からは、南部にあるパダン平原が遮るものなく見渡せる。黒い大地は夜闇に紛れて境界線を失って見えるが、均一な平面の中心から唐突に生えた黒い音叉の塔は、青黒い夜空に完全には溶け込まずにそこにある。寸分違わぬシンメトリのシルエットは、その見慣れぬ形状だけでも異質な迫力を訴えて憚らない。
 忽然と姿を現した非日常。いつまで見ていても飽きない魅力と、なかなか目を離せない怖さが共在している。
 パダンやルグニカに住む人々も、きっと同じような心地であの塔を見上げていることだろう。第一音素の地平は、堤防や長壁によって民衆の生活圏からはおいそれと見えぬよう隠されているが、ああも巨大な物体となると物理的には隠しようがない。否応なく視界に入る異物を目にして人心は平静ではいられまい。得体の知れない現象が間近に横たわっている気味悪さを、改めて味わっているに違いない。
 「あれ」が、一体なぜ、いかなる作用によってあの場所に形成されたのかは、今ここにいるアゲイトにはわからない。――おそらくそれを調査すべく派遣されてくるであろうマルクト軍との鉢合わせを回避するために、迅速に現場から離脱する必要があったのだ。非合法を地で行く子供たちはもちろん、アゲイトはアゲイトで、軍隊との接触は極力避けたい事情がある。
 どの道、アゲイト一人がどうこうと判断できる代物では到底ない。結局わけのわからないものがひとつ増えただけだ。真相を知るには、調査団の報告を待たなければならない。
 どこか据わりの悪い気分で巨大音叉から視線を引き剥がし、野営地へととって返す。夜陰をささやかに染める焚き火明かりが、十分な導となった。
 夜営は水辺から距離をとって張ってある。焚き火の他には特筆すべき設備のない、貧相な青空キャンプだ。
 空気中の有象無象を取り込んで、赤々と鮮やかな炎が踊っている。労を惜しまず集めた枝や流木が、砂利の上で惜しみなくその身を炎に喰われていく。熱を帯びたオレンジ色の光に、少年の顔が曖昧に照らし出されている。
 水流に研磨された小石の絨毯が途切れる境界線が、焚き火と少年の間に横たわっていた。柔らかな下草の上に、アゲイトが提供した寝袋を限界まで広げて敷いて、その上に少年が無造作に座っている。足を投げ出し、両腕を力なく垂らしている姿は、持ち主の思うように行儀よく姿勢を固められたアンティーク人形を思わせた。
 この半日ですっかり見慣れたその顔が、「どちら」なのか、改めて記憶と因果関係をたどるまでもなく、炎に何もかも誤魔化されがちなこの視界においても、傍目から完璧に判別できる。表情の違い、仕種の違い、身に纏う空気――鏡写しの細緻な相似を誇りながら、しかし彼らはあまりにも「別人すぎる」のだ。
「眠らないのかい?」
 朽ちかけた流木を椅子代わりに腰を落とし、焚き火に鍋をかけながら、アゲイトは斜め横に座る少年に問いかけた。
 いらえはない。少年の茫洋たる眼差しは、空を向いている。遥か天上の星々ではなく、それらの運行を妨げんばかりに聳え立つ、異様なる音叉の塔へと。
 アゲイトは応答をあえて待つこともなく、近くに置いてあった背負子を引き寄せ、木箱の蓋を持ち上げた。中に持ち歩いているのは薬剤ばかりではない。眠れない子供のために栄養満点のホットミルクを……とはいかないが、保存の利く脱脂粉乳ならば持ち合わせがある。
「……不安、なんだ」
 不意の吐露に、アゲイトは顔を上げた。保存缶を傾ける手は、見ずとも習慣的に動いて、乳白色の粉末を沸騰し始めた鍋へと正確に投入していく。
「何がだい?」
 聞いているのかいないのか、どこか正気の怪しい眼差しのまま、少年の唇が霞を食むように動く。
「眠ったら、もう二度と、目が覚めない気がして」
 つぶやきは、夢見るように。
 アゲイトの手が止まる。中途半端に揺すり損ねた最期の一振りで、缶の縁から大雑把な粉煙が一塊、炎に炙られた空気に舞った。
 少年は動かない。見上げる空は、ひょっとしたら異形の塔などではないのかもしれない。
 その向こうにあるはずの、音譜帯……もしかしたらさらに先の、遥か星の海……あるいは。
 ……何も見てはいないのかも。
 いくつかの思案がアゲイトの脳裏をゆるりと巡った。打算と良心が複雑に綾なす思考回路が弾き出した結論は、柔らかな微笑となって端正な顔立ちを彩った。子供に安堵を与えるための最大の手段は、他に思いつかなかった。
「君が目覚めなかったら、きっとレグルが夢の中まで入っていって、無茶苦茶に駄々をこねまくるだろうなあ」
「レグル……」
 少年――ルークは、そうして初めて、視線を落とした。
 腿の横に置かれたルークの左手は、暗がりで別の手に握り締められている。
 アゲイトからは死角にあたる向こう側、ルークの傍らで寝袋の半分以上を占領して横たわっている人影がある。がっしりと、ほとんど一方的にルークの手を両手で捕まえて抱え込む寝姿は、まるで身体を丸めて眠る猫。寝息も聞こえてこない、深い眠りだ。
 大穴の底で回収して以来、レグルは一向に目を覚まさない。
 合流する直前、遠目には一度目を開いたように見えたのだが、アゲイトがたどり着いた時にはすでに意識がなかった。側で見ていたはずのルークは呆然とへたり込んでいるばかりで、何があったのかを訊ねても今ひとつ要領を得ない。結局傾き始めた太陽に追い立てられて、アゲイトがレグルを担ぎ、ルークを急かしながらフーブラス川まで北上してきたのだ。
 ルークの動作のぎこちなさは、古びた譜業の挙動に似ている。スイッチを押しても起動が遅く、入力したものを出力するまでにじれったいラグがある。かと思えば、予期しないところで過剰なまでに快調な動作を見せたり異常に素早い反射を発揮したり、そのくせまた唐突にスローダウンしてみたりと、浮き沈みが極端なのだ。
 レグルを欠いた状態で、コミュニケーションに多少のぎこちなさを残しつつ、それでも川辺への退避は大きな問題もなくすんなりと済んだ。野営の準備の際は、ルーク本人は手伝うつもりでいたようだが、レグルを寝袋の上に横たえた途端ルークの手を掴んで離さなくなってしまったこともあり、見張り番と称して休んでいてもらった。底なしの眠りを貪るレグルの隣にちょこんと座り、初めこそ所在なげにしていたものの、ほんの少し目を離した隙にはもう瞳から焦点が失われていた。……傍から見ていて不安をかきたてられずにはいられない有様だ。
 日が沈む頃には粥を炊いたが、やはりレグルが起き出してくることはなかった。せっかく子供好きのするように味付けた鍋の、半分はルークの膳に、残り半分は結局、保存食で済ませるつもりだったアゲイトの胃に納まることと相成った。
作品名:彗クロ 2 作家名:朝脱走犯