青白い頬のリビオッコ
何とも形容し難い爆音が頬を霞め、白と灰色が斑になった煙が一瞬視界を覆い隠す。瞬く間に晴れていくそれは風に吹き散らされたのか、或いは音が引き摺る衝撃波に似たものによって渦を巻き攪拌されて雲散霧消したものか。硝煙の濁りを見慣れた双眸にも定かではない煙の行く末を一瞥し、雑賀孫市は空の彼方へと鳥のように――否、敢えて言うなら怪鳥のように――遠ざかっていく影が視界から消え去るのを確認すると、空へと向けていた眼を地上へと降ろした。
同じく煙を尾のように引きつつ飛び去ったものの行方を凝視していた長身痩躯の男は、未だ空の彼方を睨み付けたまま歯軋りをしている。呪詛のように漏れる言葉の合間に聞こえる骨の軋む音は、噛み締められた奥歯が憎しみを噛み砕く音であるのか否か。青白い横顔には血の色が上ることは無く、しかし色味の薄いその面に浮かぶ色は紛れも無い憎悪だ。憎しみ以外の感情が感じられないその横顔を冷徹に眺めやり、孫市はふと小さく手を振り、傍に潜んでいた部下を一人、呼び寄せた。
足音を立てずに忍び寄ってきた男の耳に小さく言葉を呟くと、男は無言で頷き腰の荷を解いて孫市に渡す。掌に収まるほどの竹の皮に包まれたそれを残し、男はするりと姿を消した。果たしてその気配に気付いていたのか――恐らくは気付いていないのだろうが、ただ単に空の彼方を睨んだとて、意味が無いと理解したらしい――漸く孫市へと視線を戻した石田三成は、ぎりぎりと一層激しく奥歯を噛み締め歯軋りの音を立てながら、眦を怒らせて腰を落とした。既にその右手は腰の刀を抜かんと閃き、全身に漲る緊張は狂気をすら感じさせる。冷たさばかりを感じさせる青白い面立ちだけを眺めていれば、果たしてこの男の何処にこれだけの熱意が秘められているのかと不思議にさえ思う。尤も、方向性の捻じ曲がった熱意は狂気以外の何者でもなく、他の感情を失ったかのようなその有様は泣き方を知らぬ癇癪持ちの子供ばかりを連想させた。
哀れだとは、思わない。
他者に同情出来るほど孫市は思い上がっている訳ではなく、また誰かを見下すこともしない。少なくとも雑賀荘を争うとした男の所業には怒りを禁じ得ないが、幾多の罠と部下の銃火を掻い潜って己の元へと辿り着いた、石田三成と言う男の腕と執念については評価に値すると孫市は思う。相手を軽んじることはしない。さりとて過大評価もしない。そうして手を組む相手を選んできた孫市にとって、遅きに失した三成は最早敵以外の何者でもないのだが、。
激昂しているのだろう、口角泡を飛ばす勢いで呪詛の言葉を吐き散らす三成の目は、到底正気とは思えぬ色に染まっている。この場に乱入した時の様子から見て常から狂気に犯されている訳ではないのだろうが、しかし一度怒りが頂点に達すれば、我を忘れてしまう性質であるらしい。或いはその怒りの源は、先刻凄まじいまでの爆音と奇妙な煙を引き連れて、空の彼方へと飛び去ったもの――徳川家康なのだろうが、それは孫市にとってはどうでも良い事である。孫市にとって重要なことは三成の感情論ではなく彼ら二人の関係性でもなく、自らと契約を結んだ家康に彼が対立するのであれば、敵として三成を排除するだけだ。あまつさえ、彼は契約の場に乱入して雑賀荘を荒らしてくれたのだ。それに対する報復として一戦交えることも吝かではないのだが――。
「今はまだ、戦う時ではあるまいな」
「逃げるつもりか!?」
「逃げるも何も、此処は我らの土地だ。早々に立ち去れ」
家康を逃がした手前、孫市とてそんな言葉が通じるとは思っていない。しかしこれ以上雑賀荘を荒らされるのは孫市の本意ではなく、況してや此処で三成と雌雄を決するつもりも無かった。彼が戦うべきは己ではなく、また彼を倒すのも己の役目ではないのだから。
尤も、今の三成に孫市の言葉が届く筈も無い。完全に逆上していると知れるその表情には鬼気迫るものがあり、唯でさえ吊り上がった眦は今にも裂けそうな程である。
やれやれ、と孫市が小さく溜息をついた、その仕草を果たして彼はどう受け止めたのか。胸の前に構えられていた右手が素早く閃き、意味を成さない悲鳴じみた叫びと共に閃光の如く白刃が煌めいた。
しかし神速と呼んでも差し支えの無いであろう抜刀ではあったが、余りにも直線的な一撃はそれを予期していた孫市にとって避けるのは容易い。鋭い踏み込みと共に胴を薙ぐ一撃を右足を半歩引いてから半身になって飛び退り、孫市は同時に手の中の包みを器用に解いた。銃を抜くことはしない。今、孫市の目的は三成と戦うことではなく、彼を煙に巻いて追い返すことなのだ。さりとて言葉を幾ら重ねたとて聞く耳を持たぬことは目に見えている――ならば、どうするか。
涼やかな音を立て、空を切り裂いた三成の刀が鞘に納まる。その瞬間に孫市は大きく踏み出し、三成の懐へと飛び込んだ。無論、三成もただ黙ってその動きを眺めている筈も無く、再び腰を落として刀の柄を握ろうとするが、孫市の右手が伸びる方が僅かに早かった。
「きさ、・・・・・・・・む、ぐっ!?」
ぐしゃ、と。
憤怒と憎悪に染まった絶叫を上げかけた三成の言葉を遮ったのは、何とも場違いな柔らかな音。刹那三成は何が起きたのかわからぬとばかりに眼を白黒させ、今にも鯉口を切ろうとしていた手の動きはぴたりと止まった。
孫市は右手の包みから取り出した『それ』を正確に三成の口へと叩き込むと、素早く身を屈めて彼の脇を擦り抜けた。幾ら虚を突いたからとは言え、斬られる隙を与えるほど愚かではない。勢い良く三成の傍らを駆け抜けた孫市はそのまま彼の間合いを外れた位置まで走り、自らの間合いに入ったところで急制動をかける。乾いた土に踵が滑り、方向転換をする動きに合わせて土煙が舞った。
そうして振り返った孫市は、ほぼ直立の状態で苦悶の表情を浮かべている三成の姿を認め、口元に薄らとした苦笑を刷いた。
「貴様はいつも怒り過ぎだ。軍の頭が冷静でなくては、用兵も儘ならんだろう。それでも食べて、少しは頭を冷やせ」
「・・・・・・・・!!」
からかうでもなく宥めるでもなく、思ったことをそのまま口にした孫市の言葉に、三成の顔が真っ赤に染まる。
しかしそれが説教されたことへの怒りの故なのか、或いは――口へと強引に詰め込まれた握り飯により、窒息しかけているが故かは孫市にはわからなかったが。
「部下にまで食事の心配をされるようでは高が知れる。そんなことだから、貴様はいつも頭に血が昇りやすく顔色が悪いのだ。腹が減ると気が短くなるからな。・・・・窒息したくなければ、良く噛んで食べるがいい」
「・・・・・・・・、――――!」
「いいな、それを食べ終わったらとっとと帰れ。我ら雑賀は徳川につく、が、此処で貴様と争う気は無い」
そう言い残し、孫市は今度こそ三成に背を向けた。最早これ以上の言葉を交わすつもりは無く、その必要も無いと判断する。決して油断した訳ではなく――幽かに背後で鯉口を切る金属の擦れが鼓膜を震わせ、声にならない奇妙な呻き声が上がった刹那、四方から銃声が響き孫市の背後に土煙を巻き上げる。放たれた銃弾は地面を穿ち、瞬く間にもうもうとした薄茶色の煙幕が立ち込める。
その最中を、孫市は悠々と立ち去った。
作品名:青白い頬のリビオッコ 作家名:柘榴