秋のPledge
吹く風に秋の匂いがした。いつきは思わず目を細める。
まだ日中は、それなりに暑い。けれどふとした、こんな瞬間には、確かに移ろう季節を感じる。
いつきは秋が一番好きだ。
突き抜ける高さを持つ澄み切った空や、夜毎に賑やかさを増す虫の音や、鮮やかに色付きだす木々の枝などを見ていると、自然と顔が綻んでしまう。
何せ秋は実りの時期だ。
そう――もう少しすれば、田圃は金色の海になる。
まだ水も温む前から田を起こし、腰を痛めて苗を植え、長雨に憂い日照りを案じ――そうやって手塩に掛けて育てた稲たちが、その頭を重そうに垂れるようになる。その瞬間が、いつきは待ち遠しくて堪らない。
そんなことを想いながら畦道を歩いていると、ふと向こうの街道に人影を見つけた。立ち止まったいつきは、一瞬身構える。格好からして、村の者ではない。あれは――武士だ。
彼女の村は、かつて信長の手により、焼き討ちの危機に曝されたことがある。その時は皆が力を合わせて抵抗し、どうにか難を逃れることができた。しかし――天下取りの戦が続く限り、完全な安泰が訪れた訳でもないことを、いつきは十分理解しているし、当然警戒を怠ったことはない。
けれど。
ふらふらと街道を歩いてくる人影は、如何にも暢気そうな風情をしていた。その様は、進軍の下見に来た侍とは思えない。
更に目を凝らせば、彼の手元からは一筋の紐が上に向かって伸びており、その先には大きな秋津が結わえられている。背格好から考えても、いい歳をした大人だろうにと思ったら、いつきは可笑しくなってきた。
けれど男が更に近付いてきたところで――いつきは真顔になって目を見張った。その人物に、心当たりがあったのだ。
「まさか……」
見間違える筈もない、けれど、こんな場所にいる筈もない、その相手。
かつてまみえたときのように、甲冑に身を包んでいる訳ではないけれど、特徴的な――余りにも特徴的な、その顔。
「あおい……おさむらい?!」
思わず漏れた小さな叫びは、相手の耳に届いたようだ。
「政宗、だ」
幾分大きな声でこちらに呼び掛けながら、彼はゆっくり歩み寄って来た。その顔は微かに笑っている。
「忘れてんじゃねぇぜ、いつき」
覚えていなかった訳では、当然ないのだ。ただ、相手は侍で、自分は農民だ。だから気安く、そんなふうに名前で呼ぶことなんて考えてもいなかったという、それだけの話だった。
「土産だ」
立ち尽くすいつきの正面に立った政宗は、彼女に向かって蜻蛉を差し出した。まだ幾分呆然としつつも、いつきはそれを受け取った。そして呟く。
「……何してらんだ、こんなところで」
「Ah――そうだな」
考えを巡らすように、軽く顔を上に向けた政宗は、やがて静かに言った。
「あんまり空が綺麗だったんでね。ぶらぶら歩いているうちに、いつのまにかここに辿り着いていたのさ」
もちろん、そんな筈はないだろう。政宗の居城がある米沢と、いつきの住む村は離れている。当然歩いてなど来られる筈もない。
――なしてだべ?
一瞬そう思ったけれど、その気持ち以上に今はただ、政宗が自分に会いに来てくれたことが嬉しくて、だからいつきは何も聞かなかった。
代わりに、「今日はあの、おっかない顔した、でっけぇおさむらいは一緒じゃねぇんだな」と言うと、顔を向けてきた政宗は、如何にも可笑しそうな表情を浮かべた。
「あいつは家で留守番だよ。ところで――お前、飯は食ったのか?」
「まだだ」
「All right! それじゃ、付き合え。一人で食うのは味けねぇからな」
いつきの返事も待たず、政宗は街道の側へと戻って行くと、道から少し外れたなだらかな斜面に腰を下ろした。秋津の繋がった紐を自分の手首に巻き付けながら、いつきも慌てて後を追い、隣に並ぶように座る。
政宗が腰に下げた包みを解けば、中には経木に包まれた握り飯が三つ入っていた。彼はその一つを取ると、残りを包みごといつきに差し出した。
「ほら」
それがあまりに当然のような仕草だったので、いつきは素直に受け取った。混ざり気のない、真っ白な握り飯だった。もうすっかり冷めてはいたけれど、そんなに固くなってはいない。その様からでも、先刻の政宗の言葉が嘘だとわかった。はるばる米沢から持って来た代物であれば、どんなに馬を急がせたところで、こんな状態のままではいられないだろう。
恐らく彼は昨日の内から訪れて、夜は近隣の村に宿をとったのだろう。そして、そこを出立する前に、この握り飯を作らせた。
――本当に、なしてだべ?
再びそんな疑問が胸に沸き上がったけれど、やはりいつきは、ご飯と一緒に言葉を飲み込んだ。
しばらく彼らは、黙って肩を並べたまま食事に専念した。そんなふうに無言でいても、不思議と気詰まりな感じはしなかった。
やがて政宗が自分の分の握り飯を食べ終えたところで、ふと、いつきは聞いてみた。
「なあ、政宗」
「なんだ?」
「おさむらいたちは、いっつもこんな白飯を、腹一杯食ってらんだか?」
一拍の後に、政宗は小さな声で答えた。
「……戦の前は、な」
風が吹く。まだ青い稲が、静かに揺れる。
「なあ、政宗」
「なんだ?」
「おめぇさんは……戦が怖くねぇんだか?」
政宗は軽く苦笑した。
「……なかなか難しい質問だな」
それきり彼は、また口を噤んでしまった。少しの間いつきは、先の言葉を待ってみる。だが政宗は、結局何も言おうとしなかった。怖い、とも。怖くない、とも。だから、いつきも黙ったまま、再び握り飯を口に押し込んだ。
風が吹く。紐の先の蜻蛉が、ゆらゆら揺れる。
「――なして戦はなくならないんだべなぁ」
やがて、最期の飯を飲み込んだいつきは、小さく呟いた。
「確かに、おかしな話さ」
受けて答える政宗の横顔は、静かに笑っている。
「戦を無くする為に、戦をしてる。本当は、そんなもん無い方がいいに決まってるのにな」
そして彼は、いつきに向き直ると、まっすぐ彼女の瞳を覗き込んで言った。
「だがな――それも、あと少しの辛抱だ」
その声は凛と澄んでいた。
「約束したろ? 俺が戦のない天下を作るって」
「――うん」
いつきは頷く。
たしかに戦は嫌いだし、その戦を生み出す侍は大嫌いだ。けれど、それでも政宗は信じていいと、そう思っている。
あのとき政宗は、自分の名前を聞いてくれた。自分たちを、人として扱ってくれた。そして今も、こんなふうに向き合ってくれている。それが嬉しかったから、政宗を信じると決めたのだ。
「小十郎はな」
いきなり話が飛んだ。聞き覚えのない名前に、いつきは軽く首を傾げる。
「こじゅうろう?」
「Ah――おっかねぇ顔の、でっけぇお侍だよ」
喉の奥で笑いながら、政宗は言葉を続けた。
「あいつは、野菜を作ってるんだぜ」
「へぇ?!」
意外な言葉に、いつきは目を見開いた。侍というものは、皆城の中で偉そうにしているか、戦をしているものだと思っていたからだ。
「暇さえあれば畑に出てるよ。長く奥州を離れる時なんか、支柱を立てたり網を掛けたり……そりゃもう出立まで大わらわさ」
まだ日中は、それなりに暑い。けれどふとした、こんな瞬間には、確かに移ろう季節を感じる。
いつきは秋が一番好きだ。
突き抜ける高さを持つ澄み切った空や、夜毎に賑やかさを増す虫の音や、鮮やかに色付きだす木々の枝などを見ていると、自然と顔が綻んでしまう。
何せ秋は実りの時期だ。
そう――もう少しすれば、田圃は金色の海になる。
まだ水も温む前から田を起こし、腰を痛めて苗を植え、長雨に憂い日照りを案じ――そうやって手塩に掛けて育てた稲たちが、その頭を重そうに垂れるようになる。その瞬間が、いつきは待ち遠しくて堪らない。
そんなことを想いながら畦道を歩いていると、ふと向こうの街道に人影を見つけた。立ち止まったいつきは、一瞬身構える。格好からして、村の者ではない。あれは――武士だ。
彼女の村は、かつて信長の手により、焼き討ちの危機に曝されたことがある。その時は皆が力を合わせて抵抗し、どうにか難を逃れることができた。しかし――天下取りの戦が続く限り、完全な安泰が訪れた訳でもないことを、いつきは十分理解しているし、当然警戒を怠ったことはない。
けれど。
ふらふらと街道を歩いてくる人影は、如何にも暢気そうな風情をしていた。その様は、進軍の下見に来た侍とは思えない。
更に目を凝らせば、彼の手元からは一筋の紐が上に向かって伸びており、その先には大きな秋津が結わえられている。背格好から考えても、いい歳をした大人だろうにと思ったら、いつきは可笑しくなってきた。
けれど男が更に近付いてきたところで――いつきは真顔になって目を見張った。その人物に、心当たりがあったのだ。
「まさか……」
見間違える筈もない、けれど、こんな場所にいる筈もない、その相手。
かつてまみえたときのように、甲冑に身を包んでいる訳ではないけれど、特徴的な――余りにも特徴的な、その顔。
「あおい……おさむらい?!」
思わず漏れた小さな叫びは、相手の耳に届いたようだ。
「政宗、だ」
幾分大きな声でこちらに呼び掛けながら、彼はゆっくり歩み寄って来た。その顔は微かに笑っている。
「忘れてんじゃねぇぜ、いつき」
覚えていなかった訳では、当然ないのだ。ただ、相手は侍で、自分は農民だ。だから気安く、そんなふうに名前で呼ぶことなんて考えてもいなかったという、それだけの話だった。
「土産だ」
立ち尽くすいつきの正面に立った政宗は、彼女に向かって蜻蛉を差し出した。まだ幾分呆然としつつも、いつきはそれを受け取った。そして呟く。
「……何してらんだ、こんなところで」
「Ah――そうだな」
考えを巡らすように、軽く顔を上に向けた政宗は、やがて静かに言った。
「あんまり空が綺麗だったんでね。ぶらぶら歩いているうちに、いつのまにかここに辿り着いていたのさ」
もちろん、そんな筈はないだろう。政宗の居城がある米沢と、いつきの住む村は離れている。当然歩いてなど来られる筈もない。
――なしてだべ?
一瞬そう思ったけれど、その気持ち以上に今はただ、政宗が自分に会いに来てくれたことが嬉しくて、だからいつきは何も聞かなかった。
代わりに、「今日はあの、おっかない顔した、でっけぇおさむらいは一緒じゃねぇんだな」と言うと、顔を向けてきた政宗は、如何にも可笑しそうな表情を浮かべた。
「あいつは家で留守番だよ。ところで――お前、飯は食ったのか?」
「まだだ」
「All right! それじゃ、付き合え。一人で食うのは味けねぇからな」
いつきの返事も待たず、政宗は街道の側へと戻って行くと、道から少し外れたなだらかな斜面に腰を下ろした。秋津の繋がった紐を自分の手首に巻き付けながら、いつきも慌てて後を追い、隣に並ぶように座る。
政宗が腰に下げた包みを解けば、中には経木に包まれた握り飯が三つ入っていた。彼はその一つを取ると、残りを包みごといつきに差し出した。
「ほら」
それがあまりに当然のような仕草だったので、いつきは素直に受け取った。混ざり気のない、真っ白な握り飯だった。もうすっかり冷めてはいたけれど、そんなに固くなってはいない。その様からでも、先刻の政宗の言葉が嘘だとわかった。はるばる米沢から持って来た代物であれば、どんなに馬を急がせたところで、こんな状態のままではいられないだろう。
恐らく彼は昨日の内から訪れて、夜は近隣の村に宿をとったのだろう。そして、そこを出立する前に、この握り飯を作らせた。
――本当に、なしてだべ?
再びそんな疑問が胸に沸き上がったけれど、やはりいつきは、ご飯と一緒に言葉を飲み込んだ。
しばらく彼らは、黙って肩を並べたまま食事に専念した。そんなふうに無言でいても、不思議と気詰まりな感じはしなかった。
やがて政宗が自分の分の握り飯を食べ終えたところで、ふと、いつきは聞いてみた。
「なあ、政宗」
「なんだ?」
「おさむらいたちは、いっつもこんな白飯を、腹一杯食ってらんだか?」
一拍の後に、政宗は小さな声で答えた。
「……戦の前は、な」
風が吹く。まだ青い稲が、静かに揺れる。
「なあ、政宗」
「なんだ?」
「おめぇさんは……戦が怖くねぇんだか?」
政宗は軽く苦笑した。
「……なかなか難しい質問だな」
それきり彼は、また口を噤んでしまった。少しの間いつきは、先の言葉を待ってみる。だが政宗は、結局何も言おうとしなかった。怖い、とも。怖くない、とも。だから、いつきも黙ったまま、再び握り飯を口に押し込んだ。
風が吹く。紐の先の蜻蛉が、ゆらゆら揺れる。
「――なして戦はなくならないんだべなぁ」
やがて、最期の飯を飲み込んだいつきは、小さく呟いた。
「確かに、おかしな話さ」
受けて答える政宗の横顔は、静かに笑っている。
「戦を無くする為に、戦をしてる。本当は、そんなもん無い方がいいに決まってるのにな」
そして彼は、いつきに向き直ると、まっすぐ彼女の瞳を覗き込んで言った。
「だがな――それも、あと少しの辛抱だ」
その声は凛と澄んでいた。
「約束したろ? 俺が戦のない天下を作るって」
「――うん」
いつきは頷く。
たしかに戦は嫌いだし、その戦を生み出す侍は大嫌いだ。けれど、それでも政宗は信じていいと、そう思っている。
あのとき政宗は、自分の名前を聞いてくれた。自分たちを、人として扱ってくれた。そして今も、こんなふうに向き合ってくれている。それが嬉しかったから、政宗を信じると決めたのだ。
「小十郎はな」
いきなり話が飛んだ。聞き覚えのない名前に、いつきは軽く首を傾げる。
「こじゅうろう?」
「Ah――おっかねぇ顔の、でっけぇお侍だよ」
喉の奥で笑いながら、政宗は言葉を続けた。
「あいつは、野菜を作ってるんだぜ」
「へぇ?!」
意外な言葉に、いつきは目を見開いた。侍というものは、皆城の中で偉そうにしているか、戦をしているものだと思っていたからだ。
「暇さえあれば畑に出てるよ。長く奥州を離れる時なんか、支柱を立てたり網を掛けたり……そりゃもう出立まで大わらわさ」