青を歩く
気が付くと、臨也は波江に向かって歩き出していた。固めの砂浜に足跡は残らず、じゃりじゃりという歩く音が、遠くで聞こえる波の音と重なった。パーソナル・スペースに立ち入らない程の距離を置いて立ち止まる。
「青いわね」
波江さん、と声をかけようとしたのだけれど、彼はとたんにその機会を失ってしまう。ぱちり、と瞬きをすると彼女と目が合う。残像だろうか、それとも光の加減でそれが映り込んでいるのか、瞳は鮮やかな青色にみえた。綺麗だな、と臨也は歩幅ひとつぶんだけそれに近づく。
「それは、同意を求めているのかな、それとも独り言?」
「…べつに、どちらでもいいわ」
ふうん、と臨也は相づちをうつと、決まりが悪くなったのか波江はふいと足元へ視線を落とした。つられて見ると彼女のつまさきが薄い紅色に彩られていることに初めて気が付く。くらくらと眩暈がするのは、日の光が強すぎるせいだろうか、思考をぐるぐるとめぐらしながら臨也はまた一歩ぶんを進める。
「ねえ波江、こっち向いて」
「どうして、」
そう答える波江はすでに臨也と視線を合わせていた。
「目が、青い」
と、呟く彼の目はちりちりと赤い。彼女は眉をしかめ、その色から逃れるように距離をとろうとする。近すぎるわ、と彼女は言う。
「すこし離れて頂戴」
「どうして?恋人なのに」
くすり、とひと笑いを添えた臨也を、波江は冗談じゃないわとばかりに睨む。
「それは仕事を何の不都合もなく終える上での設定でしょう」
「だけれどその設定を生かさないと何の意味もないじゃあないか」
あたりまえのことを説明するかのような口調で、臨也は言う。
「そうだね、子どものごっこ遊びだと思ってくれていいよ。うん、そのくらいの認識が丁度いい。夕方の五時を過ぎたらぱったりと終わってしまうような――まあ、俺たちは大人だしこれは仕事だから五時とは言えないのだけれど。少なくとも仕事がきちんと終わるまではね、」
「あなたは、」
臨也の、いつまでも続くかのような話を遮るように波江は言う。あなたは、
「いつだって遊んでいるじゃない」
その言葉に臨也は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐに表情はもとに戻り、面白いね、と笑った。面白くなんかないわ、と波江はきっぱりと告げる。
「すこしは付き合わされるこっちの身にもなったらどうなの」
おや、と、こちらの言葉の方が気になったらしく、臨也は皮靴の先で砂をとんとんと叩いてみせた。
「今日はいつもよりつっかかるね、波江。日差しがきついから?だから帽子もかぶった方がいいって言ったのに」
広いつばの麦わら帽子、いまの波江さんにきっと似合うと思うよ。臨也は落ちるような笑みのまま、そうと波江の黒い髪をひと束すくってみせる。さらさらと彼の手を逃れ落ちてゆく黒色は、ちかちかといつかのように光っていた。あ、まずいな、と彼が手放し始めた理性は、彼女の深いふかいため息によって途端にするすると手のうちに戻ってゆく。淡々と、彼女は言う。
「だから、貴方はいつだって遊んでいるのよ」
けれど、臨也はもう、驚くような仕草をみせることはなかった。もう逃れてしまった、彼女の髪を追うこともなく宙に浮いている手のひらをそのままに、その言葉をじいっと見つめる。それさえも、彼にはかの青に染まっているように思えた。青い彼女は何も言わず黙っている。そんな自分たちがこの海辺に不釣り合いで、滑稽で、今にも笑いだしたくなる。普段の彼ならそうしていただろうけれど、この場で彼の選んだ笑みは、不思議なやわらかさを含んでいた。
「君が、俺はいつまでも子どもだというならさ、」
臨也の言葉に波江がゆっくりと顔を上げ、その表情に気をとらわれているうちに、彼は宙に浮いたままになっていた手を彼女のそれへと伸ばす。こんなに日がかんかんと照っているのにもかかわらず、お互いの手はひんやりと冷たかった。まるで既に海でひと泳ぎを終えてきたかのような。
「なにするの、」
繋がれた手から視線を戻した波江の問いに、臨也は答える。
「子どもが考える、恋人同士のすることだよ。妥協案さ、足して二で割って、ね」
海岸を少し歩こう。そう言った臨也はもう一歩を踏み出していて、波江の足は自身の意志を持つことなく海の方向へと歩き出した。彼の指にはまっている指輪がごつごつと当たり少しだけ痛みがにじむ。その辺りから、だんだんとふたりの体温が馴染みはじめていることに、ふたりはもちろん気付いていたけれど、それが何かを変えてしまうという要因に成るとは限らない。それは、臨也が彼女の手をひいたことや、波江が彼の手を振り払わないことをきちんと含んでいた。
「青いなあ」、と臨也は呟く。うんと近くにいる波江は、けれど何も言わずに、そのうしろ姿を見ていた。海風に揺れた黒髪がちかちかと光るのを眺め、反らした先の海は鮮やかな青であった。そうしてやっと、「ほんとうね」と波江は答え、それから、もういちどその瞳を青で染めるように海を見つめた。目が青い、と言った恋人の言葉をあたまの端で思い浮かべながら。