たくさんの山、たくさんの海
くだらないことって何だよ。君にはそうかもしれないが、俺にはとてもとても大事なことなんだ。まったく、保護者面してなんでもかんでも切り捨てないでもらいたいな。
なんだよ、その口ぶりだとまるっきり俺が悪者みたいじゃあないか。
その通りだろ。大体君はさ、昔から俺がちょっと変わったことをしようとすると止めてきてさ。俺の身を案じて言ってくれてるのはまあ一万歩譲って理解しないこともないけど、だからってすべてが許される訳じゃあないんだよ。そこのところ分かってるかい?
わ、分かってるんだからな、ばかやろう!
ぽこぽこと怒りを露わにした紳士に男は肩を竦めました。まったくうざいったらありゃしません。
男の不穏な空気を感じ取ったのでしょう。紳士は咳払いをしてから、少し猫なで声になって言いました。
お、おい腹減ってるんじゃないのか?
まあ、そうでもないこともないけどね。
じゃ、じゃあ、俺の家で飯でもどうだ? べ、別にお前のためなんかじゃないんだからな! ただいっぱい作っちまったから、余らすともったいないと思って言ってるだけなんだからな。
ああ、もう面倒くさいな君ってやつは……分かった。案内しなよ。だけど、紅茶なんか淹れたら許さないんだぞ!
長い長い旅の疲れで、久しぶりに聞いた紳士のつんでれとか言うのが面倒になったので、紳士を受け入れることにしました。
それに、お腹が減ったことも事実です。
二人は歩き出しました。
紳士はごく自然に手を伸ばします。
長い旅で大きく固くなった男の手に驚くこともせずぎゅっと握ります。
男はぱちぱちと不自然にまばたきをし、それから深く呼吸をしました。
空は生憎の曇り。薄い霧がかかり、たくさんの車が走っているせいで排気ガスでたまりません。
街を歩く人たちは天気のせいでどことなく曇りがちに見えます。
しまいには雨が降り始めてきました。ぱらぱら、ぱらぱら。旅の間も完璧に磨かれていた男の眼鏡に水滴がくっついては流れ落ちていきます。
前はよく見えません。視界がなんだかぼんやりしています。握られた右手と、目の奥がただ熱いのです。
けれども、男はうつくしいな、と思いました。なんでか分からないけれど、なにもかもがうつくしいな、と思えたのです。
なあ、見つかったのか、たった一つ。
不意に、紳士は問います。
男は答えませんでした。
答えはもう、右手の中に静かにあったからです。
作品名:たくさんの山、たくさんの海 作家名:ひら