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たくさんの山、たくさんの海

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そんな海にいたずらっぽい笑みを返して、男は手にしたオールで船を進めていきます。
岸が見えるまで長い長い時間がかかりました。男の腕はぱんぱんに腫れあがり、襲いかかる波によって全身はびしょぬれです。
しかし夜明け前の静かな海岸とそこに波寄せる海はとてもうつくしい光景でした。
男が海を行く間ずっとぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた海は、不意に声の響きを真剣にして男に問いかけました。
どう、この海はうつくしいでしょう? あんたの言うたったひとつにふさわしいんじゃないの?
男はゆらりゆらり揺れる波の動きに身を任せあたりを見回しました。
とっぷりと沈んだ夜と、陽が辺りを照らしはじめる朝が綺麗に入り混じった海岸には人っ子一人ありゃしません。
聞こえるのはざあ、ざあと子守唄のようにやさしい波の音だけです。
男は目を閉じて思います。
ああ、このまま眠ってしまえば、どんなに安らかだろう。心地よいだろう。幸せだろう。
深く、深い眠りに落ちそうな直前、海の声で男は意識を取り戻します。
もう、聞いてるの? あたしはどうかって言ってるの。貴方のたった一つ?
その問いに、もう一度、深く呼吸して男はあたりを見回します。
海は確かにうつくしいものでした。
男の探すたった一つにふさわしいものだったのかもしれません。
けれども、男はゆっくりと首を横に振りました。
何か足りない気がしたのです。男には分からない、なくてはない何かが。

それからも男はたくさんのものと会いました。
たくさんのものを見ました。
たくさんのものを感じました。
しかし、男のたった一つにふさわしいものはなく、男は次第にあきらめ始めていました。
この世界には俺のものがないのでは、と。俺だけのたった一つがないのでは、と。

そんな男は、ある日紳士に出会いました。
彼は陰気な顔つきをして、上等なスーツに身を包んでいました。
世界をゆっくりとゆっくりと歩く男に、紳士はむっつりとしたまま声をかけました。
おいお前、そこのお前、お前は一体どこに行くって言うんだ?
男は答えました。
行き先なんて決まってないよ。あえて言えばどこまでもさ。
本当にお前は餓鬼だな。そんなくだらないことをする前にやることなんざいくらでもあるだろうが。
紳士の言葉に男は顔をしかめます。