華氏五十一度
サメとイルカは比較的似ている。
どちらも海に住む生物であるし、なかなかお目にできない珍しさも近しい。
肉食で、身体の大きさが似ているという部分もある。
だが、決定的に違う部分を挙げるとすれば、前者は魚類で後者は哺乳類であることだ。
黒沼青葉は、頭から薄い布団を被りながら、入試で使った生物知識をぼんやり思い出した。
目の前のパワーポイントでは、二次元のイルカのアシスタントを控えながら、スライドが次々変わっていく。
古いアパートに似合わない水色の遮光カーテンを閉め切った屋内は、そこだけ猛暑を毎朝毎夜ニュースする世間から切り離されていた。
パソコンのささいな起動音が、憎々しい空調設備のモーター音と重なる。
設定温度:12度
青葉が持たれる壁に設置されたリモコンの液晶が点滅した。ラムネ色にうっすら光る。
冬場の推奨設定が18度だから。完全に季節が違う。絶対違う。
特別寒がりではない青葉も震えながら体温を上げる努力を始めている。夏物の布団がこんなに薄くて軽いなんて、製造元の優秀さが悲しい。
「で、この時に別部隊が回って……」
「帝人先輩」
「何だい。ウーロン茶のお代わりなら冷蔵庫にペットボトルがあるよ」
エンターキーに薬指をかけて、説明していた声の調子が変わった。感情を極力排除した、自らは埋没することを望む性質よりは、ずっと学校にいるときの竜ヶ峰帝人に近い。
冷たい息が身体の中に入って来ることにも、咳き込みそうになりながら、青葉は声を出した。
「冷房、止めませんか」
少しでも暖を取ろうと、冷たさで古傷がひきつれる右手で肩や腕をさすることを止めるのも、実はきついのだけれど、ようやく言った。
帝人の隣にあるディスプレイでは、アニメーションのイルカが宙返りをした。
頭を掻いて、彼は困ったような笑顔で言った。多分、本当に困ってはいるのだろう。
「だってこのアパート隙間多いから、低めに設定しないとパソコンダメになっちゃうんだよね」
「設定温度上げるとか」
「僕言ったよね。このアパート、隙間が……」
帝人の困った笑顔は変わらなかった。
狭いアパートだ。隙間が多いことを差し引いても、通常の設定でも寒く感じるはずだ。
そもそも、青葉は自分のパソコンを扱う時、こんな尋常じゃないクーラー設定になんてしない。
寒くはないんだろうか? と思って帝人の顔を伺ったら、唇がやや青味がかっていた。それでも、口角のわずかな上方への傾きは変わらない。どちらかと言えば、情報への片向き矢印に意識が行ってしまっているのだろう。
振る舞っている飲み物も、帝人は口を付けていない。今、彼に毒を盛るメリットはないので、そんなことをしていないから、口を付けようと付けまいと青葉には関係はないのだけれど、そのままで次の作戦を練るものだから、唇もささくれている。
帝人の親友である、女性からの好意を糧にして生きることを願っている青年であれば、コンビニで買ったリップクリームの一つや二つも持っているのだろうが、彼はそうではないのだ。
多分、痛い。多分、染みる。多分、乾ききっている。
だけど、作戦の流れを説明するパワーポイントスライドは、次々と過ぎて、まるでその中だけが、世界で動いているかのような気がした。少なくとも思考能力が寒さで低下している青葉には。
気にならない、というのが正しいのだろうか。感覚は残れど、気にならない。気にしない。
青肌のサメはその歯をがちがち鳴らした。
イルカは人気者だ。
水族館のショーにも引っ張りだこで、女子どもにかわいいかわいいと評されて、保護活動も盛んだ。
だけど、兵器にもなりうることを、炎天下の中アイスクリーム片手に、サンシャイン通りを歩く人々はもちろん、彼らでさえも、まだ知らない。
fin