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「やんごとなき読者」(夏コミ新刊サンプル)

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「今だけ……今はただ、好きな人のことだけ、考えていてはいけませんか……?」
 彷徨う望の指先を、久藤の手がすっと捕らえる。
「あ」
 大きな掌が、望の手を包み込んだ。二人の間にあった小振りのガラステーブルを押しやって、久藤が望の目の前に進む。
「先生──好きです……」
 抱きしめられて、そう耳元へ囁かれた。
 誰かの体温に包み込まれる感触に、めまいがしそうになる。そうしなければどこかへ落ち込んでしまいそうな気持ちがして、望は久藤のシャツの背中に、ぎゅっとしがみついた。
「ほんとうは……だめなんです。私はあなたの……毒にしかならない」
 自分たちはどこにもいけない。けれど、今のこのひととき、どこでもない場所に流されることだけなら出来る。
 望はそれでもいい。はじめから諦めるつもりで自覚した恋心だから、たった一夜の思い出を得られたならば、その記憶を生涯大切に抱き続けるだろう。
 けれど、まだ年若い彼は。
 彼にはこれからの時間がある。望のことはいずれ忘れ去って、これからの人生で出会う誰かを愛することになるだろう。
 今の彼の気持ちを疑うわけではない。今こうして望を強く抱きしめて囁いてくれる、その気持ちは真実だと思う。思うからこそ。
 今この想いをふたりの間で一つの形にすることは、彼に余計な痕跡を刻んでしまう──罪悪であると思う。
「……先生」
 それならば彼を突き放せばいいのに、この場から立ち去ればいいのに。
 望は、自分を抱き寄せる久藤の背に腕を回したまま、縋り付くようにしているばかりだった。
 自分の心がままならない。
 どうすればいいのかわからない。
「久藤くん──」
「先生……僕は──どうなったって後悔はしません」
 耳元に低く囁く声。熱くて──なのに、凍えるように望は震えた。
「先生がどうしていいか分からないなら──」
 望の体をきつく抱きすくめていた腕が少し緩んだ。望もまた、久藤の背中にしがみついていた手を離して、密着していた体を少しだけ引く。
 間近に、久藤の眼差しがあった。
 熱っぽい眼差し。案じなければならない全て忘れて、その視線に籠められた想いだけに引き込まれてしまいそうなほどの。
「僕のしたいこと……していいですか」