コロイド(白正)
「ふるえるたましい」
「……はあ」
書類の提出と軽い近況報告を終え、正一はいつも通り上司の「お疲れサマ」の一言を直立不動の体勢で待っていた。
しかし上司が発したのは、なんとも脈絡のない一言。何と返すべきか、正一には適切な返答が見つからず、気の抜けた間抜けな声しか出なかった。
本当ならば一刻も早くこの部屋から立ち去ってしまいたかった。更に言うならばこのビル内に自分にとって居心地の良い場所は、もうない。唯一といっても良かった居心地の良い技術屋のところには、あれ以来行っていなかった。
「正チャンがさあ、天使の梯子のことをぐだぐた変に解説してくれちゃったから、僕、あの綺麗な光景を純粋な目で見られなくなっちゃったよ。どう責任取ってくれるの?」
「そんなこと言われても……」
じとりと百蘭が正一を見据える。正一は理不尽な物言いを向けられていると分かってはいたが、だからといって返す言葉も持ち合わせていなかった。
本当に、どうしろと。
正一は向けられる言葉の理不尽さに耐えかねて開き直ってしまいたかった。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱したくなるが、辛うじて直立不動を維持。
百蘭の物言いと、先程の突飛な発言がどう繋がるのか、全く見当がつかない。
「コロイド、っていうんでしょ? あの梯子の中にあるもの」
「ある、というよりはコロイド粒子に光が反射して薄明光線――」
百蘭の顔が僅かに歪む。正一はすぐさま自分の失敗を正した。
「――天使の梯子が見えているんです」
ああ、なんて面倒な人なんだ、この人。
自分が気に食わないことを正直に顔に出す百蘭が、この時ばかりは少し煩わしく思えた。
一応相手は上司なのであるから、最低限ご機嫌取りをしなければならない。機嫌を降下させた場合、そのしっぺ返しは正一の身に何倍にもなって返ってくるものだから堪ったものではない。
正一の訂正に百蘭はそれなりに気を良くしたようだ。その顔にはいつも通りの笑みが浮かんでいる。
「あの梯子の成り立ちは、この際もうどうでも良いんだよね。正チャンに言われてから僕なりに勉強したんだけどさ、そのコロイドって小さく振動してるんでしょ?」
「ええ、ブラウン運動といって微粒子に分子が各方向から当たって、微粒子が不規則に震えるんです」
ここでようやく、先程の百蘭の発言に繋がりそうなキーワードが出てきた。つまり「ふるえる」ということ。だがその後に続いた「たましい」の行方は何処だろう。
怪訝な顔を見せる正一に、百蘭は笑みを一層深くした。
「色々勉強しているうちに、そのコロイドとすごく似たもの見つけちゃって」
自分の見つけた事実を他人に見せびらかせるのが嬉しいのか、百蘭の声は弾んでいる。
「昔の哲学者はね、魂そのものもこれ以上は不可分とする微小のもの同士が結合して出来ているって考えたんだ。そして人間の感情は、その微小の存在が振動することによって発生すると考えた」
「ふるえる、たましい……」
「そういうことー。正チャン大正解。マシマロ食べる?」
「……いえ、結構です」
ひとつ摘んで正一に差し出したものの、その返答を聞くなり百蘭はマシュマロをそのまま口に放り込んだ。その顔に満足そうな笑みが浮かんでいるのは、正一が百蘭の望む答えを口にしたからか、あるいはただ単に好物を食せることが嬉しいだけかもしれない。
笑みばかり浮かべる百蘭の真意を正一が推し量れるはずもない。正一自身が感情を隠すのに一杯一杯で、相手の感情を汲み取る余裕がないことも大きかった。
「微小のもの――アトムが振動せず、安定している時には快活。小さく振動している時には快楽。そして、大きく振動すれば、苦痛」
ねえ、と殊更ゆっくりと百蘭は口を開く。その声は何処か幼く舌っ足らずで、正一の鼓膜をゆっくりと舐め上げた。
「正チャンの魂のアトムは、今どれくらい震えているの?」
正一は魂などという不確かなものを信じていない。あくまで概念的なものだと分かってはいるが、目の前の百蘭は本当にその存在を信じていそうだった。
この男は、本当に自分の魂がどれだけ震えているのか聞いている。
魂の震えは感知出来ない。けれども自分が現状をどう思っているかははっきりしていた。
少なからず、百蘭と面と向かっている際に平生通りであったことなど一度たりともない。百蘭の言葉を借りれば、百蘭といる時、正一の魂は震えてばかりいるということになる。
問題はその震えだった。間違っても彼と共にいる時間に快楽を感じたことはない。だからといって、苦痛しか感じていないという訳でもない。
これ以上黙り込んでいても自分に有利な状況にはならない。
それどころか時間の経過と共に百蘭の機嫌が降下し、正一が不利になる一方だ。
「分かりません……」
「分からないの? 薄明光線もコロイドの震えも知っている正チャンが、自分の魂の震え方も知らないの?」
小憎たらしい顔をして百蘭が言う。正一は拳をぐっと握りこんだ。
「僕はね、正チャンと一緒にいると全然魂が安定しないんだ。快活には程遠いよ」
百蘭は立ち上がると、直立不動の姿勢を保ったままの正一のところまで来た。その手には何も持っていない。暇さえあれば摘んでいるマシュマロは、彼がいた机の上に置き去りにされていた。
そっと白蘭の手が正一に伸ばされる。正一は動くことも出来ずに、ただその手が自身に触れるその時を待っているしかなかった。
握り込んだ拳がそっと包み込まれた。
「今は小さくカタカタ震えてる。でも、正チャンが僕以外の誰かと一緒にいると大きく震えるんだよ。不思議でしょ?」
触れ合った手と手は、確かに小さく震えていた。正一の手だけではなく、百蘭の手もまた小さく震えていることに正一は息を呑む。
「分かりません……」
発した声までも震えている。震える拳が震える手に包まれていても、正一は今自分が何を感じているのか全く分からなかった。
「どうしてみんな、そんな簡単に好意を誰かに示せるんですか……!」
涙が小さく震えて、正一の頬から零れて落ちた。
(091108)
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