心配なんだモノ
頭の怪我は怖いと相馬に教えられて、どうにか無理やり佐藤を病院に連れていくことには成功した。医者から脳波に異常もないし、CTでも異常はみられなかったと聞いたが、八千代はそれでも安心できなかった。
『数日後にいきなり具合が悪くなるなんて事もあるらしいからね』
相馬の言葉がどうしても頭の片隅に残り、心配で仕方がない。それを察した佐藤は彼女の前でもらったばかりの薬を一回分飲みほして見せた。
「とりあえず薬は飲んだから、大丈夫だ。だから心配するな」
いつもの落ち着いた表情でそうなだめられて、八千代は一応頷いた。
いま、目の前ではその彼が静かに眠っている。
帰りのタクシーの中ですでにうつらうつらとしていたのだが、彼の自宅に着くころには足取りもおぼつかない様子で、部屋のベットにたどり着くとそのままバタンと倒れるように眠ってしまった。一瞬、具合が悪くなったのかとドッキリしたのだが、苦しんでいる様子も見えないし、整った寝息が聞こえてきたのでほっと一息つけた。
「……」
ベットの足元あたりに丸まっていた毛布をかけてやるともうやる事が無くなってしまう。手持無沙汰に部屋をぐるりと見渡してみる。1ルームのアパートは男性の独り暮らしの割に小ざっぱりと片付けられ、乱雑さが見えると言えば、部屋の片隅に放り投げられるように置かれたベースギターとピック、手書きの楽譜くらいだ。
(そう言えば、バンドをしてるって言ってたわ…)
4年の付き合いがあっても、部屋に上がるのは初めてだ。普段淡々としている彼の私生活が垣間見えるのが、少し新鮮で、それでいて情けなくなる。
(ワグナリアにいる時以外の事って、あんまり知らない…)
彼は普段とても優しくて、ときどき思いもよらない指摘をしてくれて、八千代にとって本当に数少ない『お友達』なのに。
眠っている彼の横顔をそっと覗き込む。
鋭い目が、今は閉じられていて眠っている事も相まってどこか幼くも見えた。前髪の隙間から見えるガーゼだけが痛々しさを醸し出している。
八千代は、そっと彼の前髪に手を伸ばした。深い意味はない。ただ、いつも隠れている顔の半分を見たいと思ったのかもしれない。
「…ん」
触れるか触れないかのところまで行ったその手は、無意識に気配を察したのだろう佐藤の手に阻まれた。彼は口の中で何かを呟きながら小さく身じろぎする。……誰かの、名前のようだった。
「………」
(なんだろう)
それが女の人の名前だった気がして、そう思ったら、胸に何かが使えたような気がした。とても、気分が重くなる。
ふと、昔何の気なしに見たドラマで、恋人がいるかどうかは左手の薬指を見ればわかる、と言っていたのを思い出す。その時指輪をしていなくても、指輪の跡があるらしい。深く考えないままに、毛布の隙間から見える左手に手を伸ばし、その指に触れたところではたと気がついた。
(え、あ、えぇと…)
調べてどうしようと言うのだろうか。彼に恋人がいたら、いなかったら、それで?
慌てて引っ込めようとした手が、不意に誰かに。
誰か、何て考える必要もない。今、この部屋にいるのは八千代と佐藤だけだ。
「!!!」
八千代が伊波だったら、ここで相手を殴っていただろう。
彼は彼女の手を握り締めると自分の胸のあたりに引き込んだ。急だったため八千代は少しベットにもたれかかる態勢になる。
思っていたよりも大きく、硬い手。指は太く、握る力は痛くはないけれど強い。少し距離が縮んだ彼からは、タバコの匂いがした。見える薬指に指輪の後はなく、なんだかほっとする。
(よかった…)
その思いの意味を自覚しないまま、彼女は静かにベットに額を押し付けた。
急にぐいっと、額が押されて顔を持ち上げられた。
「おい」
「あら?さとーくん?」
さっきまで眠っていた彼がどうして起きているのか。そう思ってから、自分にも寝起き特有のけだるさを感じた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
佐藤はベットの中で体を起こし、眉間にぐっとしわを寄せて、とても不機嫌そうに八千代の額を支えている。
「ど、どうしたの?なんだか、怒ってない?」
「…………」
彼は大きくため息をつく。八千代にはよくわからない理由で怒っている時はいつもこうだ。言葉を探すように少し視線を左右に流した後、もう一度ため息をついた。
「何で、こんなところで寝てるんだ?」
「あ、の、眠るつもりはなかったのよ?ちょっとだけ、安心したっていうか……。元気みたいでよかった」
「お前な……」
だいたい、と言いかけて、彼はふと下を見た。正確には毛布の上だ。それから少しだけだが目を見張る。
「これは…?」
「え?あ、この手?これはね、さとーくんの手、ちょっと触ろうとしたら、その…」
「…俺か…………」
たっぷり数十秒の沈黙が流れた。
「…佐藤君?」
「……今、何時だと思ってる」
「え?」
慌てて部屋の中の時計を探すと12時を少し過ぎていた。
「あ、大変!」
病院へ向かったのが6時過ぎ、検査が終わってこの部屋へ移動したのが8時過ぎだ。
「お夕飯食べてないわ。ねぇ佐藤君、キッチン借りてもいいかしら。簡単なものしか作れないけど…」
部屋の片隅に設置されているキッチンへ移動しようと立ち上がったが、佐藤が手を握ったままなので半腰のまま止まってしまった。
「佐藤君?ひょっとしておなか減ってない?」
本当に…、と呟いたあと、彼はため息をついて立ち上がった。
「帰れ。送って行ってやるから」
「え?でも、佐藤君の車はワグナリアに置きっぱなしよ?それに、出来れば今日くらいは一緒に、い、痛い痛いわ」
手を離した佐藤はがっしりとてっぺんから八千代の頭を掴んだ。ギリギリと力を入れる。
「そんなんだから、あの真柴二号に色々言われるんだ」
ぱっと手を離すと、最後の仕上げと言わんばかりに額にデコピンを入れ、彼は携帯電話をとりだした。タクシー会社の番号を調べると手際よく連絡を入れる。
「佐藤君、私がいるの、そんなに迷惑?」
そのいらついた態度に思わず涙ぐみながら見上げると、彼はぐっと言葉に詰まり一度目を閉じてから八千代から少し離れた場所に腰をおろして胡坐をかいた。慣れた手つきでテーブルの上からタバコをとり、ライターに手を伸ばしたのでそれはとっさに八千代が取り上げる。
「怪我してるのに、タバコはダメよ」
火の付いていない一本を加えた彼は少し驚いた顔をすると、口でタバコを揺らしながら天井を振り仰いだ。
「医者も言ってただろ、たいした怪我じゃねぇ」
「でも」
「だいたい、女がこんな遅くまで外にいるもんじゃねえし」
「外じゃないわ、佐藤君のお家だもの」
「…女がこんな時間まで男の家にいるもんじゃねえ」
「お友達の家にいるのもダメなの?」
「……ダメだ」
彼はイライラと火もついていないタバコを灰皿に押し付けた。
「佐藤君、返ってきたときはフラフラだったのよ」
「薬が思ったよりも効きすぎただけだっての。それにな……」
ここで佐藤は本日何回目になるかわからない、さらには最大級のため息を漏らした。
「さっきは薬が効いてたから大丈夫だったが、基本、俺は人がいるとゆっくり眠れないんだ。だからお前、帰れ」
『数日後にいきなり具合が悪くなるなんて事もあるらしいからね』
相馬の言葉がどうしても頭の片隅に残り、心配で仕方がない。それを察した佐藤は彼女の前でもらったばかりの薬を一回分飲みほして見せた。
「とりあえず薬は飲んだから、大丈夫だ。だから心配するな」
いつもの落ち着いた表情でそうなだめられて、八千代は一応頷いた。
いま、目の前ではその彼が静かに眠っている。
帰りのタクシーの中ですでにうつらうつらとしていたのだが、彼の自宅に着くころには足取りもおぼつかない様子で、部屋のベットにたどり着くとそのままバタンと倒れるように眠ってしまった。一瞬、具合が悪くなったのかとドッキリしたのだが、苦しんでいる様子も見えないし、整った寝息が聞こえてきたのでほっと一息つけた。
「……」
ベットの足元あたりに丸まっていた毛布をかけてやるともうやる事が無くなってしまう。手持無沙汰に部屋をぐるりと見渡してみる。1ルームのアパートは男性の独り暮らしの割に小ざっぱりと片付けられ、乱雑さが見えると言えば、部屋の片隅に放り投げられるように置かれたベースギターとピック、手書きの楽譜くらいだ。
(そう言えば、バンドをしてるって言ってたわ…)
4年の付き合いがあっても、部屋に上がるのは初めてだ。普段淡々としている彼の私生活が垣間見えるのが、少し新鮮で、それでいて情けなくなる。
(ワグナリアにいる時以外の事って、あんまり知らない…)
彼は普段とても優しくて、ときどき思いもよらない指摘をしてくれて、八千代にとって本当に数少ない『お友達』なのに。
眠っている彼の横顔をそっと覗き込む。
鋭い目が、今は閉じられていて眠っている事も相まってどこか幼くも見えた。前髪の隙間から見えるガーゼだけが痛々しさを醸し出している。
八千代は、そっと彼の前髪に手を伸ばした。深い意味はない。ただ、いつも隠れている顔の半分を見たいと思ったのかもしれない。
「…ん」
触れるか触れないかのところまで行ったその手は、無意識に気配を察したのだろう佐藤の手に阻まれた。彼は口の中で何かを呟きながら小さく身じろぎする。……誰かの、名前のようだった。
「………」
(なんだろう)
それが女の人の名前だった気がして、そう思ったら、胸に何かが使えたような気がした。とても、気分が重くなる。
ふと、昔何の気なしに見たドラマで、恋人がいるかどうかは左手の薬指を見ればわかる、と言っていたのを思い出す。その時指輪をしていなくても、指輪の跡があるらしい。深く考えないままに、毛布の隙間から見える左手に手を伸ばし、その指に触れたところではたと気がついた。
(え、あ、えぇと…)
調べてどうしようと言うのだろうか。彼に恋人がいたら、いなかったら、それで?
慌てて引っ込めようとした手が、不意に誰かに。
誰か、何て考える必要もない。今、この部屋にいるのは八千代と佐藤だけだ。
「!!!」
八千代が伊波だったら、ここで相手を殴っていただろう。
彼は彼女の手を握り締めると自分の胸のあたりに引き込んだ。急だったため八千代は少しベットにもたれかかる態勢になる。
思っていたよりも大きく、硬い手。指は太く、握る力は痛くはないけれど強い。少し距離が縮んだ彼からは、タバコの匂いがした。見える薬指に指輪の後はなく、なんだかほっとする。
(よかった…)
その思いの意味を自覚しないまま、彼女は静かにベットに額を押し付けた。
急にぐいっと、額が押されて顔を持ち上げられた。
「おい」
「あら?さとーくん?」
さっきまで眠っていた彼がどうして起きているのか。そう思ってから、自分にも寝起き特有のけだるさを感じた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
佐藤はベットの中で体を起こし、眉間にぐっとしわを寄せて、とても不機嫌そうに八千代の額を支えている。
「ど、どうしたの?なんだか、怒ってない?」
「…………」
彼は大きくため息をつく。八千代にはよくわからない理由で怒っている時はいつもこうだ。言葉を探すように少し視線を左右に流した後、もう一度ため息をついた。
「何で、こんなところで寝てるんだ?」
「あ、の、眠るつもりはなかったのよ?ちょっとだけ、安心したっていうか……。元気みたいでよかった」
「お前な……」
だいたい、と言いかけて、彼はふと下を見た。正確には毛布の上だ。それから少しだけだが目を見張る。
「これは…?」
「え?あ、この手?これはね、さとーくんの手、ちょっと触ろうとしたら、その…」
「…俺か…………」
たっぷり数十秒の沈黙が流れた。
「…佐藤君?」
「……今、何時だと思ってる」
「え?」
慌てて部屋の中の時計を探すと12時を少し過ぎていた。
「あ、大変!」
病院へ向かったのが6時過ぎ、検査が終わってこの部屋へ移動したのが8時過ぎだ。
「お夕飯食べてないわ。ねぇ佐藤君、キッチン借りてもいいかしら。簡単なものしか作れないけど…」
部屋の片隅に設置されているキッチンへ移動しようと立ち上がったが、佐藤が手を握ったままなので半腰のまま止まってしまった。
「佐藤君?ひょっとしておなか減ってない?」
本当に…、と呟いたあと、彼はため息をついて立ち上がった。
「帰れ。送って行ってやるから」
「え?でも、佐藤君の車はワグナリアに置きっぱなしよ?それに、出来れば今日くらいは一緒に、い、痛い痛いわ」
手を離した佐藤はがっしりとてっぺんから八千代の頭を掴んだ。ギリギリと力を入れる。
「そんなんだから、あの真柴二号に色々言われるんだ」
ぱっと手を離すと、最後の仕上げと言わんばかりに額にデコピンを入れ、彼は携帯電話をとりだした。タクシー会社の番号を調べると手際よく連絡を入れる。
「佐藤君、私がいるの、そんなに迷惑?」
そのいらついた態度に思わず涙ぐみながら見上げると、彼はぐっと言葉に詰まり一度目を閉じてから八千代から少し離れた場所に腰をおろして胡坐をかいた。慣れた手つきでテーブルの上からタバコをとり、ライターに手を伸ばしたのでそれはとっさに八千代が取り上げる。
「怪我してるのに、タバコはダメよ」
火の付いていない一本を加えた彼は少し驚いた顔をすると、口でタバコを揺らしながら天井を振り仰いだ。
「医者も言ってただろ、たいした怪我じゃねぇ」
「でも」
「だいたい、女がこんな遅くまで外にいるもんじゃねえし」
「外じゃないわ、佐藤君のお家だもの」
「…女がこんな時間まで男の家にいるもんじゃねえ」
「お友達の家にいるのもダメなの?」
「……ダメだ」
彼はイライラと火もついていないタバコを灰皿に押し付けた。
「佐藤君、返ってきたときはフラフラだったのよ」
「薬が思ったよりも効きすぎただけだっての。それにな……」
ここで佐藤は本日何回目になるかわからない、さらには最大級のため息を漏らした。
「さっきは薬が効いてたから大丈夫だったが、基本、俺は人がいるとゆっくり眠れないんだ。だからお前、帰れ」