彼の愛人の話をしよう
1.蜂
彼が訪れる日というのはパレルモの天気が教えてくれる。出不精ではないが面倒くさがりだから、天候が悪い日には決してやってこない。それは単に、雨の日は髪が跳ねて格好悪いだとか、たかが雨で気が滅入っている自分を見せたくないだとか、であるらしい。
昨日の天気予報によれば今日は晴れだった。菊はベッドから起きるとカーテンを開け、まぶしさに目を瞬かせる。一日の予定がぱっと頭の中を駆け巡り、あっと言う間に各々の引き出しに入り込む。今日は仕事の予約も入っていないから、一日のんびり過ごして彼の来訪を待つことと相成った。彼以外のマフィオーソ(マフィア構成員)は、一週間は前から予約をしなければならない。決めたのは彼ではなく相談役だ。
普段通り着物に着替えた。冷たい水で顔を洗い、簡単なしかしバランスのとれた朝食をとる。この仕事は健康第一だと考えているので菊は食事にも気を使っている。彩りよく野菜を添え、卵を焼いた。
テレビをつけて目的なく見つめる。郊外で起きた誘拐事件について鼻息荒く話すキャスターが映っていた。現場だろうか、背景に森の緑と畑を背負い、被害者が消えたという場所を身振り手振り激しく指し示している。
誘拐は先週に続き二度目であるが、相手はいわくつきで首謀者は既にシチリア全土が知っている。そうでなくても冷静な菊はぼんやり眺めるだけで特に感慨もない。むしろ、実入りがあるかどうか頭の中で自分と賭けていた。
たぶん、あんまり関係ないけれど。
菊はそう思って立ち上がった。表をトラックがけたたましく走っていく。積み荷の一つでも落としたのだろうか、石畳に叩きつけられ鈍い音が聞こえた。
量の少ない洗濯物を洗濯機に入れて回す。その間に食器を洗い、新聞に目を通す。やはり誘拐事件についてうるさく報じているようだが、なんだか滑稽だ。
新聞をラックにしまって洗濯物を干しにベランダに出た。この辺りは景観地区ではないからいくら外に干しても何も言われないのがいい。
ベランダに出ると日差しがこぼれ落ちてくる。右隣の家の屋根がわずかに高い位置にあって、夏にはいい日除けだ。熱い日差しはただ菊のつま先の先、ベランダの手すりを掠めて落ちていく。
屋根の先に一人分の下着と服、シーツを二枚、それから一人暮らしにしてはたくさんのタオルを干した。ほとんど白一色のそれらが揺れる。風はないが、同時に湿気もないからすぐに乾くだろう。
昼食と夕食の買い物に出かける。緩やかな坂道の途中にある菊のアパートメントは三階にある。縦に細長く、奥行きがない建物だ。玄関から出ると自転車が坂道を降りてくる。そっと横に避けて、逆方向へと歩き出した。
魚屋と八百屋を巡るだけ。平目を見つめながら少し考え込んだ菊に、店主は今日は来るのかいと尋ねた。
菊はさぁ、たぶん、と曖昧に返す。
「他に予約もないですし、天気もいいですから来られるのではないかと思いますが…何せ、勝敗は常に五分五分で」
「なるほど」
彼はゆったり頷いて納得したことを示すと、平目を二尾、あさりを一掴み包んだ。あら、と菊がわずかに目を丸めると、美人にはおまけだよと彼は笑う。彼が来てもこれなら足りるだろうとも。
奥から太った奥さんが睨んできたので、菊はそそくさとその場を後にした。
八百屋ではトマトとズッキーニ、じゃがいもを買った。やはり彼は来るのかと問われたので、菊は少し考えてからおそらく、とやはり曖昧に答える。
注文より一つずつ多めに野菜を貰って坂道を下った。どうせ時間は埋める程あるので、遠回りをして帰る。
途中で小さなカフェの前を通ると、常連達がカードに勤しんでいた。
「よお、菊」
「どうだい、お前さんもやっていかねぇか」
小さな汚いテーブルに初老の男四人が集まって、平日の昼からトランプ。ちょっと覗き込むと、テーブルの上にはコインが乗っている。
絵としてはこの上なく「らしい」と感じながらも、菊は首を横に振って断りを入れる。
「つれねえなあ」
「菊、今日はボスはいらっしゃるのかい?」
「どうでしょうねぇ。私にもわかりません」
こりゃ傑作だ、と男の一人が笑った。彼は隣の男にこら、と怒られ、菊に惨めったらしい瞳でごめんよと謝る。
それから苦笑した。
「いつか俺もくじで一発当てたら、あんたのとこに行きたいね」
「いつでもお待ちしておりますよ」
男は肩を竦めて被った帽子をちょっと傾けた。恥ずかしそうに見えた。
菊は会釈しその場を離れた。
太陽が頂点に達して身を焼かれる前に散歩を切り上げ家に戻る。昼の時間は過ぎていたが誰に作る訳でもないから冗長なまでに時間をかけて料理した。
皆がシエスタしているだろう頃に昼を食べる。平目のムニエルとパンとサラダ。塩気をきかせた魚は旨い。
やがてとろとろと眠気がやってきて、菊は小さく欠伸を漏らしベッドに横になる。ここには小さなキッチンのついたダイニングとバスルームと寝室しかない。小さな菊にはそれで十分だ。
タオルケットをかけて目を閉じればすぐにシエスタに入ることができる。菊の場合シエスタの習慣というのはなくて、ただ眠い時に寝るというだけだった。
天井でくるくる換気用の羽が回り、室内の空気をかき混ぜる。
菊が起きると壁の時計は五時を指していた。重い身体を起こして昼の片付けをし、部屋の掃除をする。毎日していることではあるし、菊が綺麗好きでそもそも部屋を汚さないためあまり意味はないのだが、終わってみるとなんとなくすっきりするのだ。
ぱりぱりに乾いた洗濯物を取り込みシーツを取り替える。太陽の匂いを閉じこめた白い感触をベッドに張って、菊はベッドに腰掛けた。
「…――」
ふと意識を飛ばしていると、ベルが鳴った。
黒いオリーブのような瞳が寝室からダイニングへ続くドアを見つめる。腰を上げて寝室を出、ダイニングを通って玄関にたどり着くとドアの覗き穴に視線を合わせた。
よく見知った顔を確認して、菊は扉を開けた。
「ブオンナノッテ、ボス」
「ブオンナノッテ…あちぃな」
ロヴィーノは眉間に皺を寄せたままそう言って菊の腰を抱き寄せた。仕事の帰りにそのまま寄ったのだろう、いつもの黒いスーツを着ている。ネクタイは面倒だったのか暑かったのか胸ポケットにねじ込まれていた。
菊は目を閉じ、頬へ挨拶のキスを受け、同じように返す。
するりと首筋をなぞった手を叩いた。非難がましい目が二つ菊を映して歪み、彼は忌々しげに吐き出した。
「今日の夕食は?」
「カポナータにでもしようかと思って」
「ふぅん」
適当な相槌を打って、ロヴィーノは菊の身体を解放するとドアを閉めた。さっさと寝室へ向かう菊の後ろ姿をちらりと見てからゆっくり続く。
菊はベッドの準備をしながら、もうなさいますか、それとも食事を先に?そう尋ねた。
ロヴィーノは壁に寄りかかって、食事は後でいいと言った。暑さにまいっている声音だった。
「情けないですね。私の方が暑さに弱いのに元気だなんて」
「うるせーよこのやろー…あいつら、炎天下だろうが冷房一切つけねえんだ。これだから痩せ我慢とただの資金不足を被せて考えてる奴らは」
作品名:彼の愛人の話をしよう 作家名:碧@世の青