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白い箱庭

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こうして並んで歩くのは久しぶりだね、と言ったら、伊角は呑気に、そうだったかな、と笑った。
笑いごとじゃない、と抗議の意味を込めて無言で睨むと、少しだけ殊勝な表情になった。

「ごめん。悪かったよ」

素直に口にされた謝罪の言葉が、どうにも真剣味に欠けているように思うのは、被害妄想だろうか。
もちろん、本人は真面目に謝っているつもりなのだろうが、本気で悪かったとは思っていないのだと奈瀬にはわかる。
本当に心から悔いているなら、同じことは繰り返さない。
つまり、これまでに何度となく同じことを繰り返してきたその理由は、推して知るべし、なのである。

だが奈瀬は、そのことで伊角を責めようとは思わない。
確かに腹は立つのだが、その怒りはあまり長くは持続しないのだ。
広いようで狭い世界だ。彼の活躍はおのずと耳に入ってくる。
それらを聞くにつけ、自分の預かり知らぬところで元気に思う存分やっている様子に、憎らしくなったり、ホッとしたり、色々な感情がない交ぜになってじわじわと心の内側に湧いてくる。

そんな混沌とした中でいつでも最後に残るものは、同じ名前の感情だ。
惚れた弱み、と言われたらそれまでだが、そんな安いものだと思われてはおもしろくない。

「伊角くんがそんなだから、他のみんなに気を遣わせちゃうのよ」

同じ季節を一緒に戦った院生の仲間たち。
その内の数名はプロとなり、また数名は未だ院生のままだ。
目に見える壁があるわけではないけれど、その差は歴然としている。
くだらない話をして、安いジャンクフードを食べながら、昔のように小さなテーブルを囲んでいたとしても、それは動かしがたく、確かに存在している。

つい二、三十分前までの風景を思い出し、奈瀬がからかうように詰ると、さすがに彼も、困ったように肩を竦めた。
個々では顔を合わせているけれど、あれだけ一同に会するというのは、滅多なことではない。若獅子戦という特殊な規定のトーナメントだからこそだろう。
真剣勝負の場には違いないが、院生出身の棋士が少なくない以上、集まってくる面子も必然的に懐かしいものが多くなる。
だからというか、ごく当たり前のような流れで、試合が終わった後、折角だしどこかに寄って行こうか、となった。

先ほどまでの試合の話や、ここ最近の戦績の話、互いの近況についてなど、話題は尽きなかった。
後になってみれば、それほど長い時間ではなかったのだが、随分と話し込んでしまっていたような気もするから不思議だ。
楽しい時間はあっという間に過ぎるけれど、同時に、とても永く感じる一瞬があるということも、奈瀬は知っている。
多分、あの場にいた彼らとは、そんな一瞬をたくさん共有してきたということなのだろう。

すでに空は、西の一角をわずかに残して、夜の色に染め上げられている。
こんな時間に女の子を一人で帰らせるなんて不用心なことをしていいのか、と仲間たちに揃って詰られ、伊角はこうして奈瀬を家まで送り届ける羽目になった。
間違っても同じ方向とは言えない。明らかに遠回りだ。無論、誰もがそんなことは承知の上である。つまりは暗に、そのくらいの埋め合わせはしてしかるべきだ、と言ったのだ。

それがわかったから、奈瀬も口に出して遠慮はしなかった。
ただ、どうするの、と伺いを立てる意味を込めて傍らの人を見上げただけだ。
しかし彼にはそれが最後のダメ押しに見えたのか、謹んで送らせていただきます、と相なった。

「別に無理して送ってもらわなくてもよかったのに」
「無理してなんかないよ。ていうか、家まで送るとか、そういう発想が全然なかった自分に猛省中です」
「あんまりそういう風には見えないけど」
「そんなことはないだろ」
「そんなことありますよ。本気で穴埋めしようとしてるんなら、手を繋ぐくらいのこと、してもいいんじゃないの?」

奈瀬がそう言って見上げれば、薄闇の中であるにも関わらず、伊角がギクリと動揺するのがわかった。
滅多に人とすれ違うこともないような路地を歩いているのに、何を気にするのだろう、と奈瀬などは思ってしまうのだが、どうも誰かの目があるかどうかは大きな問題ではないらしい。
伊角のそんな性格は百も承知で言ったのだから、しどろもどろの反応にも、別に腹は立たなかった。

「………伊角くん、変な顔になってる」

ぷ、っと思わず吹き出してしまった奈瀬に、伊角は自分がからかわれたのだと悟り、苦笑いを浮かべた。
ここで、何分の一かの本気があったのだと思い至らない辺り、相変わらずだ。
しかし、それはそれで彼のかわいいところなのだと思える奈瀬もまた、大概なのだろう。

「それにしても、今年の若獅子戦は盛り上がったわよね。北斗杯の影響かしら」

同じ世代の若い棋士たちにとって、あのイベントが与えた衝撃は大きかった。
それはプロにとっても院生にとっても変わりない。もちろん奈瀬だってその一人だ。
会場にまで足を運んだという伊角など、言わずもがなだろう。そのときの感想を敢えて聞きはしなかったが、今日の対局を見る限り、彼の中にも期するものがあるようだと知れた。
冷静で穏やかな水面の下で、青く揺らめく炎を垣間見るような、そんな気持ちにさせられた。

「そうだな。おかげで、刺激的で、有意義な対局ができたよ」
「伊角くんの最後のあの一局は、ギャラリーもすごかったよね。空気がピンと張りつめて、見ているだけなのに、息をするのを忘れそうになるくらいだった」
「ギャラリー、確かにすごかったな。終わってから気づいて、びっくりした」

声を立てて呑気に笑う横顔に、対局のときの凍るような厳しさはどこにもなかった。
一方が仮初めなのではなく、どちらも真実、伊角の素顔だ。
時折、この人の中にどうしてこんな激しいものが潜んでいたのだろうと驚かされることがある。
同時に、何でこんな馬鹿がつくほどお人好しで不器用なんだろうと呆れることもある。
だが、それらを一つずつ論うことに意味はない。結局のところ、どれが欠けても成り立たないのだ。

奈瀬はそんな伊角の横顔を盗むように見つめながら、ゆっくりと歩く速度を緩める。

「全勝合格の新人、対、北斗杯日本代表。これは見逃せない好カード、ってとこでしょ?」
「変な持ち上げ方するなよ。……でもまぁ、確かにあの二人と打ちたいと思ってたのは確かだから、そういう意味では、俺にとってありがたい組み合わせだったんだけど」
「今回はその二人が早々にぶつかっちゃったからね〜。あれもすごかった!」
「俺はあとで他のやつに並べてもらったよ。さすがだったな」
「ああいうの見せつけられちゃうと、ほんと敵わないなぁ、って思わされちゃうわ」

愚痴や弱音に聞こえてしまうだろうかと思いながらも、奈瀬は軽口をたたくようにぼやいた。
案の定、伊角は少し驚いたように振り返り、そこでようやく、いつの間にか奈瀬が随分と後ろの方を歩いていたことに気がついた。

「…………奈瀬?」

伊角が足を止め、訝しげに名前を呼ぶ。
同じく足を止めた奈瀬の方へ、一歩踏み出そうとしたところで、奈瀬は彼の名前を呼んだ。
踏み出しかけた足は、ぴたりと元の場所に戻ったまま動けずに留まる。

「ダメだよ、こっちに来ちゃ」
作品名:白い箱庭 作家名:あらた