白い箱庭
そう言われて、伊角はひとまず素直に従ったが、表情にはありありと困惑の色が浮かんでいた。
それもそうだろう、とおかしくなったが、ここで笑ってしまったら、からかっただけなのだと思われてしまうので、どうにか堪える。
手を伸ばしても届かないが、声は十分に届く。その表情も、はっきりと見てとれる。
そんな曖昧な距離を置いたまま、立ち尽くす伊角を見つめ、奈瀬は言葉を探した。
「ねぇ、伊角くん。………私と伊角くんの間にある距離って、どのくらいだと思う?」
脈絡の見えないその問いに、伊角は身構えていただろうに、きょとんと目を丸くした。
「えーと……。それは、今俺の立ってる場所から奈瀬の立ってる場所までの距離を訊いてるわけじゃないんだよな?」
「そうね。どっちかって言うと、もう少し抽象的な話かな」
にっこりと微笑んで見せる奈瀬とは対照的に、伊角の表情は凪いだ水面のように静かになった。
「――――……。奈瀬は、どう感じてるの」
「そういう質問はルール違反だと思うけどなぁ」
しかし奈瀬は、笑いながら少しだけ肩を竦めてこう答えた。
「正直言うと、よくわからなくなることがあるの。近づいたり遠ざかったり、定まらないっていうか」
「…………」
「そもそも伊角くんは私にとって、いつでも自分のずっと前を歩いている人だったんだよね。追い付けないような場所を真っ直ぐ前へ前へ突き進んでいて、私には届かない背中が見えるだけ。………今日、久しぶりに伊角くんの真剣勝負を目の前で見て、しばらく忘れてた感覚を思い出した気がする」
同じ部屋でみんなで肩を並べて学んでいた頃、彼はいつでも上位にいて、奈瀬には手が届かなかった。
勝負は時の運だと言う通り、実力以上の力を発揮したり、自分よりも上の者を負かしてしまうことがある。奈瀬にも、そういった経験は少なからずあった。
だが、初めて碁盤をはさんで向かい合ったとき、彼にはまぐれでも敵わないことを、奈瀬ははっきりと思い知った。
勝負の世界で生きて行こうと思う以上、こんな風に感じるのは情けないことなのだと知っている。
だから、一度も口に出して言ったことはないし、全部を受け容れたわけでもない。
だが、そんな葛藤など馬鹿馬鹿しいと思えるほど、彼に強い憧れを抱いたのだ。
もっと知りたい。もっと近づきたい。そう願う気持ちは引力のようなものだろう。
では、遠ざけようとする力は、果たしてどこから生まれてくるのか。
それがなければ、きっと迷わずここにある距離など取りはらってしまえるのだ。
「もしいつまでも変わらない距離のままだとしたら、……それは平行ってことになるな」
ぽつり、と伊角が呟きを落とした。
「なるほど。確かにそうね」
「いつまでも交わらないより、近づいたり遠ざかったりを繰り返してる方が、よっぽど健全だと思うけど」
「でも、不安にならない?遠ざかったらそのままって可能性もあるじゃない」
「そんなことにはならない、って俺はわりと本気で思っているんだけど、これって自惚れなのかな」
手を繋ぐのにもためらうような意気地なしのくせに、こんな台詞を真面目に言ってしまうのだから、まったく理解に苦しむ。
奈瀬は目の前の伊角へ、ゆっくりと一歩踏み出す。
「そういう言い方はずるい」
「奈瀬が否定してくれないからつけ上がるんだよ」
憎らしいことを言ってくれる。奈瀬は次の一歩は踏み出さず、その場にまた立ち止まった。
ほんの少しだけ短くなった距離。互いに腕を伸ばせば指先は触れられるかもしれない。
奈瀬は残りの距離をじっと見つめて、再び思う。
彼の強さに憧れ、その背中を追いかけている。
敵わないと心のどこかで気づきつつも、いつか追いついてみせるのだ、と。
だが、同じ心は、同時にまったく真逆のことを願うのだ。
その想いが、ただ引かれるままに近づいてはいけないのだと警鐘を鳴らしている。
彼にとってのただ一人でありたい。
いつまでも隣で肩を並べられる自分でありたい。
誰よりも彼に、恥じない自分でありたい。
――――……恋をしている。
奈瀬はその事実を、素直に認めた。
追いかけるだけではダメなのだ。
その背中を見つめ続けるのではなく、きちんと向かい合うのでなければ嫌だ。
けれど、ちゃんとこっちを見てよ、なんて子ども染みたことは口が裂けても言えない。
そんな我儘を聞き入れる彼など見たくはないし、ましてや振り返ることさえしない彼は、それ以上に見たくない。
いつから自分はこんなにも天邪鬼な我儘になってしまったのだろう。
うんざりする。だが、なかったことにもしてしまえない。
そして奈瀬はまた、引力に負けて彼との距離を一歩詰めた。
「伊角くんって妙なところで強気よね。私にも分けてほしいわ」
「奈瀬がウンって言ってくれたら、結構カンタンに分けてあげられると思うよ」
冗談みたいな口調につられて、奈瀬は小さく笑った。
また一歩距離を縮めて、目の前に差し出された手を取った。
「………伊角くんの掌はいつも熱いね」
見た目よりも厚みのある手を、確かめるようにぎゅっと握りしめる。
繋がった場所から何かが少しずつ、熱と一緒に溶け始めるようだった。
ゆっくりと、頭の片隅でカウントダウンが始まる。
――――ゴ……、ヨン……、
一歩前へ進み、そっと腕を引かれて顔を上げ、また一歩前へ踏み出す。
先ほどよりもずっと近い場所で見上げるその人の顔は、気恥かしいくらいやさしくて、穏やかだった。
不意にわけもなく泣けてきて、鼻の奥がツンとなる。
「奈瀬の手は、握るまではすごく緊張するんだ。でも、こうして握ると、ホッとする」
「ホッとする?」
「そう。多分、すぐ側に奈瀬がいるんだな、って実感するからなんじゃないかな」
すぐ目の前にいるのにおかしなことを言う、と笑えば、彼もまた、そうだよな、と笑って相槌を打った。
しかし口ではそう言いながらも、奈瀬には伊角の言いたいことがわかるような気がした。
――――サン……、ニィ……、
重ねていた指先を緩め、絡めるように握り直し、また一歩近づく。
空いている方の手が奈瀬の髪をやさしく撫で、くすぐったさに笑いながら、もう一歩踏み込んだ。
そこはもう、腕を回せば抱きしめられる場所だった。
「なぁ、奈瀬」
大きな掌が奈瀬の頭を包むように添えられる。
その温かさに、自分が丸ごと包みこまれるような不思議な錯覚を抱く。
低すぎず、高すぎず、心地よい声が自分の名前を呼ぶのを、奈瀬は子どものように大人しく聞いていた。
「俺はさ、こうして手を伸ばせば触れられる距離にいたいな、って思うよ」
温かい掌が、ゆっくりと奈瀬の頬の上を滑る。
まるで壊れ物に触れるような慎重さで、そっと丁寧に輪郭を確かめる掌にうながされ、奈瀬は顔を上げた。
これが自分にだけ許された距離であればいい。
この場所から見上げるその笑顔も、自分だけのものであればいい。
奈瀬は伊角の腕にぎゅっとすがりつき、最後の一歩を詰めた。
――――イチ……、
不安を抱かずにいられるわけはない。
きっとこれから何度だって、繰り返し揺らぎ、その度に同じようなことを口にするのだろう。