恋とはどんなものかしら
それはゆめでもなく、まぼろしでもなく、
【恋とはどんなものかしら 】
この問いに明快な答えがあるというなら、誰でもいい、ひとつご教示いただきたいものだ、と跡部は考えている。
考えて答えの出るものではないのかもしれない。しかしそれでは困る。非常に困る。どのくらい困るのかといえば、考えすぎるあまり、朝食の際に紅茶のお替りはいかがと言われるままに立て続けに五杯ほど飲み干し、使用人に怪訝な顔で、もしまだお召し上がりになられるようなら新しく淹れ直したポットをお持ちいたしますと言われてしまうほどだ。
ちょっとしたときに、すぐにその問いに囚われては上の空になってしまう自分を誰より苦々しく思うのは、他ならぬ跡部自身である。
誠にあるまじき、由々しき事態だ。常なら信じられないような失態を繰り返し続ける自分に、ほとほと愛想が尽きている。
主観の中ではまったく変わらないつもりでいるのに、さすがに目の前で起こった出来事にまで眼を瞑れるはずもない。そこで「これは夢だ、何かの間違いだ!」と声を大にして否定するほど愚かではない。
「跡部は、隙だらけな方が安心するから、それでいーんじゃねーの」
赤毛のオカッパ頭は、あっけらかんとした調子でそう言った。
色々と聞き捨てのならない台詞に、跡部はムッとして眉根を寄せたが、そんな不機嫌などは何処吹く風といった調子で続ける。
「だってさぁ、お前がそれで隙もなくて馬鹿でもなくて性格悪くもなかったら、俺、絶対お前と友達なんかやってらんねぇよ。これ断言していいけど」
断言されてもあまり嬉しくない内容だが、彼は至って真面目だった。
「てめぇの言ってることは意味不明過ぎる」
「だからさ、何でもかんでも完璧でケチつけられないようなやつなんて、一緒にいて息が詰まりそうでイヤじゃん。その点、跡部はテニス強いし頭も良いし女にはモテるし金持ちだし、普通に考えれば口利きたくもないくら腹立ちそうなもんなのに、あんまりそう感じないのは、性格が俺様で隙だらけのバカだから、プラスマイナスでゼロ、ってとこなのかなーと思って」
「おい岳人。俺様に喧嘩を売るつもりなんだったら表へ出ろ」
「いやここテニスコートのど真ん中だしな?」
向日の的確かつ冷静なツッコミに、跡部は辺りを見回して口を噤む。
今は部活動も終了し、最後の後片付けをしているところだった。
三年生が引退し、跡部たち二年生は部を引っ張っていく側となった。その中でも跡部は氷帝男子テニス部の大将だ。晴れて正レギュラーとなった向日と大将であるところの跡部がネットを片付けているのに、一年生達は既に帰ってしまっていてここにはいない。というよりも、既に跡部と向日以外の部員がいないのだ。
ネットが張ってあったのもこのコートだけ。練習不足で欲求不満の跡部が自分のために、一面だけ片付けずに残させたのだ。向日はそれに付き合わされているのである。
「あーあ腹減って死にそう〜…。何か途中で食って帰りたいけど、今日の晩ご飯は唐揚げだって言ってたしなぁ〜」
今夜のおかずが大好物だと聞いて、これは何としても胃袋を万全の状態にして臨まなければいけないと思っているものの、目先の誘惑は断ち切りがたい、ということらしい。
かなりの高確率で後から後悔させられるのは目に見えていても、中々人間うまくは立ち回れないものである。
そんな単純だけれど複雑な心情は、跡部にもわからないということはない。しかし、跡部は帰宅途中で買い食いをするということは基本的にしないし、したいという考え自体がない。言葉遣いの悪さは部の中で随一だったけれど、基本的な行儀作法はきちんと一通り躾けられているので、登下校中の道で食べ物を買って、歩きながら食べる、もしくは店先で断りもなく座り込んだりする所業は、はしたないものでしかない。
「ま、いいや、今日はまっすぐ帰ろ。跡部、お前はどうする?」
目先の誘惑はひとまず断ち切ったらしい。向日は丸めたネットをカゴにに突っ込んで小脇に抱えていた。
辺りはすっかり、夕暮れ時となっていた。空もテニスコートも赤々と燃えるような色に染め上げられている。長く伸びた自分の陰を見つめて、跡部は奇妙な既知感を抱いた。
――――いや、既知感じゃない。
今跡部の前にあるのは、確かにほんの数日前、跡部の身に起きた出来事の記憶だった。
「……いや、俺はもう少し打ってく」
「そっか。じゃあ、お先に。あ、そうそう、何かスランプみてぇだけど、ほどほどにしとけよ。そういうときは、一度スッキリ忘れて何も考えない、ってのもひとつの手なんだぜ」
さばけた口調でそう言って去っていく向日は、小さな姿形であっても部の中では一、二を争う男前な性格なのだということが、こんなときは改めて思い出される。
しかし跡部はその後ろ姿を見送りながら、それができたら誰がこんな苦労をするものか、と歯噛みをするような思いだった。
考えずにいられるようならそうしたい。
これ以上考えたくないのに、頭の中では堂々巡りを繰り返すばかりで消えようとしない。
テニスをしているときはまだマシなのだ。だから予定がないという向日を誘って居残り練習をしていた。それ以外、例えば今のように何をするでもなく一人きりでいるようなときが、一番まずい。これは一体何の魔法か、はたまた呪いの類かと舌打ちしたくなるほどだ。
考えたくなくても蘇り、跡部を捕えるのは、あの男の言葉。
「あれぇ、跡部?」
出し抜けに響いた素っ頓狂な声に、跡部は不意を打たれてぎょっとなった。
声の主を捜して辺りを見回すと、スタンド席の上の列に黒い人影が見えた。跡部が今いる位置からでは距離があるため、それはただの黒い塊にしか見えず、その顔までは判別できない。
だが、先ほどの声だけで、顔を確かめる必要はなかった。
「……どうしたんだ?」
跡部は近づいてくるその影に向かって問いかける。
逆光の中で次第にはっきりしてくるその顔には、やわらかな笑みが浮かんでいた。
「部室に忘れ物したん思い出して取りに戻ってきてん。ほしたら誰かがまだコートにおるみたいやったから見に来てみたら、跡部やったから。……この時間まで一人で練習しとったんや?」
「ちょっと前までは岳人がいた」
「そうなんや。もう暗くなるで、帰らんの?」
忍足の何気ない問いに、跡部はどう答えたものかと戸惑った。
どの答えがこの状況での最善なのか、と思考は目まぐるしく働く。しかしその間、傍からから見れば直立姿勢のまま微動だにせず目は据わっている、という姿はさぞかし異様に映ったことだろう。
事実、忍足はコートのすぐ外まできて、怪訝そうに首を傾げた。
「………どないしたん?ごっつい顔しとんで?」
そう言われて、跡部もハッと我に返った。
「な…、何でもねぇよ。それよりおまえ、用は済んだんじゃねえのか」
「いや、これから行くとこやねん。せやから跡部も帰るとこなら一緒に部室まで行こうかと思ってな」
そうきたか、と跡部はばれないように舌打ちをした。
用が済んだならとっとと帰れ、と言うつもりが、逆に一緒に行こうと誘われてしまった。
【恋とはどんなものかしら 】
この問いに明快な答えがあるというなら、誰でもいい、ひとつご教示いただきたいものだ、と跡部は考えている。
考えて答えの出るものではないのかもしれない。しかしそれでは困る。非常に困る。どのくらい困るのかといえば、考えすぎるあまり、朝食の際に紅茶のお替りはいかがと言われるままに立て続けに五杯ほど飲み干し、使用人に怪訝な顔で、もしまだお召し上がりになられるようなら新しく淹れ直したポットをお持ちいたしますと言われてしまうほどだ。
ちょっとしたときに、すぐにその問いに囚われては上の空になってしまう自分を誰より苦々しく思うのは、他ならぬ跡部自身である。
誠にあるまじき、由々しき事態だ。常なら信じられないような失態を繰り返し続ける自分に、ほとほと愛想が尽きている。
主観の中ではまったく変わらないつもりでいるのに、さすがに目の前で起こった出来事にまで眼を瞑れるはずもない。そこで「これは夢だ、何かの間違いだ!」と声を大にして否定するほど愚かではない。
「跡部は、隙だらけな方が安心するから、それでいーんじゃねーの」
赤毛のオカッパ頭は、あっけらかんとした調子でそう言った。
色々と聞き捨てのならない台詞に、跡部はムッとして眉根を寄せたが、そんな不機嫌などは何処吹く風といった調子で続ける。
「だってさぁ、お前がそれで隙もなくて馬鹿でもなくて性格悪くもなかったら、俺、絶対お前と友達なんかやってらんねぇよ。これ断言していいけど」
断言されてもあまり嬉しくない内容だが、彼は至って真面目だった。
「てめぇの言ってることは意味不明過ぎる」
「だからさ、何でもかんでも完璧でケチつけられないようなやつなんて、一緒にいて息が詰まりそうでイヤじゃん。その点、跡部はテニス強いし頭も良いし女にはモテるし金持ちだし、普通に考えれば口利きたくもないくら腹立ちそうなもんなのに、あんまりそう感じないのは、性格が俺様で隙だらけのバカだから、プラスマイナスでゼロ、ってとこなのかなーと思って」
「おい岳人。俺様に喧嘩を売るつもりなんだったら表へ出ろ」
「いやここテニスコートのど真ん中だしな?」
向日の的確かつ冷静なツッコミに、跡部は辺りを見回して口を噤む。
今は部活動も終了し、最後の後片付けをしているところだった。
三年生が引退し、跡部たち二年生は部を引っ張っていく側となった。その中でも跡部は氷帝男子テニス部の大将だ。晴れて正レギュラーとなった向日と大将であるところの跡部がネットを片付けているのに、一年生達は既に帰ってしまっていてここにはいない。というよりも、既に跡部と向日以外の部員がいないのだ。
ネットが張ってあったのもこのコートだけ。練習不足で欲求不満の跡部が自分のために、一面だけ片付けずに残させたのだ。向日はそれに付き合わされているのである。
「あーあ腹減って死にそう〜…。何か途中で食って帰りたいけど、今日の晩ご飯は唐揚げだって言ってたしなぁ〜」
今夜のおかずが大好物だと聞いて、これは何としても胃袋を万全の状態にして臨まなければいけないと思っているものの、目先の誘惑は断ち切りがたい、ということらしい。
かなりの高確率で後から後悔させられるのは目に見えていても、中々人間うまくは立ち回れないものである。
そんな単純だけれど複雑な心情は、跡部にもわからないということはない。しかし、跡部は帰宅途中で買い食いをするということは基本的にしないし、したいという考え自体がない。言葉遣いの悪さは部の中で随一だったけれど、基本的な行儀作法はきちんと一通り躾けられているので、登下校中の道で食べ物を買って、歩きながら食べる、もしくは店先で断りもなく座り込んだりする所業は、はしたないものでしかない。
「ま、いいや、今日はまっすぐ帰ろ。跡部、お前はどうする?」
目先の誘惑はひとまず断ち切ったらしい。向日は丸めたネットをカゴにに突っ込んで小脇に抱えていた。
辺りはすっかり、夕暮れ時となっていた。空もテニスコートも赤々と燃えるような色に染め上げられている。長く伸びた自分の陰を見つめて、跡部は奇妙な既知感を抱いた。
――――いや、既知感じゃない。
今跡部の前にあるのは、確かにほんの数日前、跡部の身に起きた出来事の記憶だった。
「……いや、俺はもう少し打ってく」
「そっか。じゃあ、お先に。あ、そうそう、何かスランプみてぇだけど、ほどほどにしとけよ。そういうときは、一度スッキリ忘れて何も考えない、ってのもひとつの手なんだぜ」
さばけた口調でそう言って去っていく向日は、小さな姿形であっても部の中では一、二を争う男前な性格なのだということが、こんなときは改めて思い出される。
しかし跡部はその後ろ姿を見送りながら、それができたら誰がこんな苦労をするものか、と歯噛みをするような思いだった。
考えずにいられるようならそうしたい。
これ以上考えたくないのに、頭の中では堂々巡りを繰り返すばかりで消えようとしない。
テニスをしているときはまだマシなのだ。だから予定がないという向日を誘って居残り練習をしていた。それ以外、例えば今のように何をするでもなく一人きりでいるようなときが、一番まずい。これは一体何の魔法か、はたまた呪いの類かと舌打ちしたくなるほどだ。
考えたくなくても蘇り、跡部を捕えるのは、あの男の言葉。
「あれぇ、跡部?」
出し抜けに響いた素っ頓狂な声に、跡部は不意を打たれてぎょっとなった。
声の主を捜して辺りを見回すと、スタンド席の上の列に黒い人影が見えた。跡部が今いる位置からでは距離があるため、それはただの黒い塊にしか見えず、その顔までは判別できない。
だが、先ほどの声だけで、顔を確かめる必要はなかった。
「……どうしたんだ?」
跡部は近づいてくるその影に向かって問いかける。
逆光の中で次第にはっきりしてくるその顔には、やわらかな笑みが浮かんでいた。
「部室に忘れ物したん思い出して取りに戻ってきてん。ほしたら誰かがまだコートにおるみたいやったから見に来てみたら、跡部やったから。……この時間まで一人で練習しとったんや?」
「ちょっと前までは岳人がいた」
「そうなんや。もう暗くなるで、帰らんの?」
忍足の何気ない問いに、跡部はどう答えたものかと戸惑った。
どの答えがこの状況での最善なのか、と思考は目まぐるしく働く。しかしその間、傍からから見れば直立姿勢のまま微動だにせず目は据わっている、という姿はさぞかし異様に映ったことだろう。
事実、忍足はコートのすぐ外まできて、怪訝そうに首を傾げた。
「………どないしたん?ごっつい顔しとんで?」
そう言われて、跡部もハッと我に返った。
「な…、何でもねぇよ。それよりおまえ、用は済んだんじゃねえのか」
「いや、これから行くとこやねん。せやから跡部も帰るとこなら一緒に部室まで行こうかと思ってな」
そうきたか、と跡部はばれないように舌打ちをした。
用が済んだならとっとと帰れ、と言うつもりが、逆に一緒に行こうと誘われてしまった。
作品名:恋とはどんなものかしら 作家名:あらた