恋とはどんなものかしら
立ちこめる湯気の中で、はぁ、と息を吐く。こんな場所まであの男のことばかりを考えている事実が、何よりも腹立たしく、それでも考えることをやめられない自分は、もしかしたら今まで知っていた自分とは違う何かになってしまったのではないかと、そんな埒もない考えが浮かんで消えた。
着替え終えた跡部がロッカールームに戻ると、そこには忍足がいた。
忍足はソファに座ってぱらぱらと雑誌をめくっている。とうに帰ってしまったと思っていたので、跡部はその姿を見つけて、驚きに目をみはった。
「跡部」
あちらも気づいたらしく、手元から顔を上げて、跡部を見てにこりと微笑んだ。
「待ってたのか、もしかして」
「もしかして、て……。この状況で他にないやろ。傷つくなぁ」
「帰る方向、逆だろ。どうせすぐそこまでじゃねぇか」
「その、ほんのちょっとの距離でも二人で並んで歩きたいっちゅー健気な恋心がわからへんかなぁ」
軽口を叩きながら、忍足はソファから立ち上がり、雑誌を棚に戻した。
恋心、という言葉に、跡部は大いに戸惑った。その様子を見て、忍足は困ったように笑う。
この忍足の表情を見たのは果たして何度目だろうか。ざわざわと胸が騒ぐようで、落ち着かない。
「目ぇ泳いでんで、跡部」
指摘されて、跡部は決まるの悪さにうろたえた。しかし意を決して、ようやく言葉を探し出す。
「俺は、てめぇの言った通り、この数日で一生分くらい考えた」
すると忍足はとっさに意味がわからなかったのか、きょとんとしたが、次第に眼鏡の奥の瞳が、大きく見開かれる。
「え……、それ、俺のこと?」
「この文脈で他の何が考えられるのか言ってみやがれ、このタコが」
「う、あ、そうやな、ごめん……」
ぎろりと睨み付けられ、忍足は体を小さくして謝った。
「それで、それだけ真剣に考えても、結局答えはわからなかった。でも俺はようやくついさっき、それ自体がもしかしたら答えなんじゃないか、と気がついた」
そこで言葉を一旦句切り、跡部は忍足の顔をまじまじと見つめた。
この男の声も姿も発した言葉も、どれだけ蘇らせて反芻しただろうか。その時点で気づくべきだったのかもしれない。だが確信は今だってないのだ。
「お前は、これが正解だと思うか?」
「それは、跡部の決めることや」
「お前は、俺にどんな答えを望んでる?」
すると忍足は、たまらず吹き出して、跡部のすぐ目の前に歩み寄り、まだ濡れて乾かぬ髪を、愛おしげに一房つまんだ。跡部はその行為をとがめなかった。
「跡部が、俺に恋したらえぇと思うとるよ」
口にすると何と陳腐でばかばかしいのだろう。
そのくせ、ひどく甘くて息が苦しい。
「お前が……確かめてみろよ。これが、本当に恋なのか」
跡部は極上の笑みを浮かべて、忍足の頤に指を添える。
忍足は泣き笑いのような情けない顔で、跡部の頬にそっと口唇を寄せた。
作品名:恋とはどんなものかしら 作家名:あらた