あんこと私
Scene.1 【invisible】
ノルウェーは物心ついたころから視えないはずのものが視えた。地上をさまよう霊魂が見えるのは稀で、主に《精霊》と呼ばれるような、ヒトならざる者たちとの意志疎通ができた。
不思議なことに、彼らに触れ、彼らと会話できるのは自分だけらしい。早々に自分の特異性に気づいていた彼女がそれをひけらかすことはなかったが、周囲は目ざとく彼女の異質を嗅ぎ取った。次第に、真綿が身体を取り巻くように、ノルウェーは周囲から孤立していった。
それをさびしいと思ったことはない。さびしいと思う暇もないほど、ノルウェーの周りにはヒトならざる友人が多すぎた。
高校生になって、ようやく精霊以外の友人ができた。これでも昔に比べれば丸くなったほうだ。
フィンランドは言う。ノルウェーは誤解されやすいのだと。
「なんでみんな、ノルウェーさんのことを怖いって言うんでしょうね」
「そげんこと言われてんのけ?」
面と向かって言われたことこそないものの、妙に一目置かれているのは分かる。フィンランドくらいだ、こんなに臆することなく話しかけてくるのは。
「え、あっ、いえいえみんなっていうか、うちのクラスの子っていうか!」
失言と悟ったか、大慌てで言い繕おうとするフィンランドだが、続くフォローは鎮火のつもりがむしろ火に油をそそぐがごとき、つまりは墓穴堀りである。このうっかりさんめ。ノルウェーが指先で彼女の頭をこつんとこづくと、「おひゃあ!」と悲鳴を上げる。おもしろい。
「気にしとらんから、謝らんでもええべ」
くつくつとのどの奥で笑いながら言う。今はフィンランドさえいてくれればいいと思っているので、周囲の評価など心底どうでもいいのだ。
こういうところが駄目なのだろうと、分かってはいるのだけど。
「ノルウェーさん、実は結構お茶目だったりするのに……冗談が分かりにくいというか。学校で笑ってるところも見たことないしなぁ」
フィンランドも内気な性格ではあるのだが、彼女は打ち解ければよくしゃべる。ほがらかで人当たりのいい性格に、人付き合いに苦労している様子はない。
対して、にこりとも微笑まないどころか、必要最低限の会話しかしないノルウェーである。
「みんなノルウェーさんのことを知らないから好き勝手言うんですよ。ノルウェーさんと会話したことないから」
「……分からん」
「え?」
「会話って、いつも何の話をしてんだ、おめぇらは」
何を話せばいいのか分からない。名前しか知らないような相手と何について語らうのだ?
「えーっと、昨日見たテレビの話とか、今日のテストのこととか、昨日髪切ったんだねーとか」
あれそういやいつも何の話してんだろ僕、とあらためて小首を傾げるフィンランドである。要するに、これといって意味のある情報のやりとりはしていないということだ。
「……」
「……」
沈黙。
非常に気が進まない。気にかけてくれるフィンランドに申し訳ないが、ノルウェーにとっては無茶振りでしかなかった。
「え、えーっとですね!ノルウェーさんって、よく休み時間とかに自分の席に座ってますけど、何やってるんですか?」
「空の雲を眺めたり、とか」
「へえぇ」
あまり表情が豊かな方ではないし、口数も少ない。お前が何を考えているのか分からない、とはノルウェーがよく言われることだ。
「ノルウェーさんみたいなひとが頬杖ついてるのって、すっごく絵になるんですよねぇ」
はう、とため息をつくフィンランドを横目に、そういえばとノルウェーも思い出した。上級生の男子生徒が、「ああいう美人って何考えて生きてんだろうな」なんて言っているのを、ばっちりと聞いていた。
美人、という実感のない装飾語についてはこの際スルーするとして。
残念ながらノルウェーに限っては、
「別に、特になんも考えてねぇべ」
――というのが正解である。雲を見ながら取り留めもないこと、たとえば昼は何を食べようとか、弟のアイスは下宿先でうまくやっているだろうかとか、そんなことだ。
割とぼんやりマイペースに生きているノルウェーだが、周囲の人たちが勝手に自分を誤解してくれる。実は流されやすい体質だったりするので、気がついた時には周囲がよく分からないことになっていたりするのだ。
最近の「よく分からないこと」の筆頭は、デンマークという教師の存在だ。このセンセイが、やたらとフランクに接してくるのである。あんまりにもデンマークのテンションがうっとうしいものだから、うっかり馬鹿呼ばわりしてしまったことがあるのだが、それでも彼は馬鹿みたいに笑っているだけだった。
ノルウェーは基本的に、教師の名前を覚えない。校長、教頭、数学教諭、養護教諭など、顔と役職名がかろうじて一致する程度だ。
それがあの馬鹿――いや、デンマークの名前は、忘れようと思っても忘れられない。
入学式の時はこっそり居眠りしていたので、教師陣の紹介など聞いていなかった。現国の担当教師として教室に入ってきたデンマークを見て、思わずぎょっと目を剥いたノルウェーだった。
男は、背後に守護霊を背負っていたのだ。
ムラっけがあるのか、相性の問題なのか、不完全なのか。だからこそ気が狂わずに済んでいるのだ、ノルウェーが常に《ヒトならざる者》を視ているわけではない。ごく稀なケースの中でも、デンマークのそれは別格だった。
その日の昼休みに、廊下を歩いていたノルウェーは彼に呼び止められた。
「おーい、ノル!ちっと聞きてぇことあんだが!」
彼女は立ち止る。誰だこいつはと思った。すぐに、先ほど初めての授業を受けた現国教師だと分かった。名前は覚えていない。
「なぁノル、さっきの授業の時なんだげどな」
「あ?」
担任でもないのに彼は自分の名前を覚えているらしい。それにしてもなれなれしい男である。
「俺、なんか妙なこと言ったりしてたっぺか?」
「……はぁ?」
「いや、おめぇ、俺の顔見るなりすんげぇ顔しとったから」
気づいていたのか。しかし、自分のように無表情で座っていた生徒が、いきなり思い切り表情を変化させれば、何かあったかといぶかってもおかしくはない。
ふよん、と浮いてる《くるん》が揺れる。
「センセ、おめぇの後ろに、」
言いかけて口を閉じる。教えてやることもないし、どうせ信じまい。ん?と背後を振り返り、「なんか付いてたんけ?」といやにいとけない仕草で首をかしげるデンマークに、むらむらと湧きあがるのは悪ふざけに似た衝動。
により、と笑って、意味深に言ってやった。
「私は、そういうモンが視えんだべ」
ぐりんっと後ろを振り返り、「……え?え?!」とノルウェーと自分の背後の空間を見比べるデンマークにはそれ以上教えてやることもなく、彼女はそのまま立ち去った。
それからなぜだかノルウェーはデンマークに気に入られてしまったようだった。「ノル!」と自分を呼びながら、人懐っこく寄ってくる。非常に、うざい。
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