魔法の力が解ける頃
俺は一目惚れ、なんて信じちゃいなかった。
そも一目惚れ、を科学的分析によって考察する学者共の頭の固さと言うか、そう言う野暮さには一言くれてやりたいとも思う。恋や愛と言うデリケートな心の問題を無神経に語るデリカシーの欠片も無さそうなお堅い連中を1度拝んでやりたいものだ。が、この際それは置いておいても良い。
一夜限りの情熱にしても、人にしてみれば少しずつ育まれる長い愛にしても。
男なら女にやさしく愛でて当然だろう、と、俺に流れる血がそうさせもする。
神がアダムにイヴを宛がったように、男には女が必要で、違いは決定的だった。
女の子ってのは、良い匂いがするし、キスすれば甘いし、抱けば柔らかくて温かいし、笑顔は可愛い。
それに限る訳じゃないが、心が感じて頭が冷静に編み出す言葉だとこんなものだ。得てしてそれ等は一時心を満たす。
でも、それは決して恋じゃない。俺はそう思わない。
第1にして、国たる俺と人間との恋愛が互いの寿命や在り方により長続きする訳もないし、国の化身である女の子達とは、利権だの国交だの周囲の目だの、国としての務めが壁になる事もあって、成就する事は無かった。
過去も今も、そしてこれからも、そんな事がある訳ないと、思っていた。
無意識に目が追った、初めての日。
その日も、国ならば必ず1度は通わねばならないと言う学園の廊下を歩いていた。
大体国に学校ってどう言う事だよ、と疑問を持ってもこれが慣例なのだと放り込まれれば大人しくなるしかない。
国際交流を大義名分に掲げながら"弱肉強食"の時点で矛盾してて笑える。
そんな俺の隣では弟のヴェネチアーノと自称親分のスペイン、俺とは違い恋と情熱に生きる奴等は、談笑している。騒がしく喚き立てる弟に対して親分は朗らかに微笑んで頷いていた。
ヴェッヴェッ、ふそそそそ~、と2人の謎の笑い声を聞きながら欠伸を噛み殺してふと前を見た時。
俺の目の前、そして直ぐ横、通り過ぎた人影に思わず足を止め、瞳を奪われた。
残り香が俺の鼻孔を掠め、柑橘系の良い匂いがした。
人影は角を曲がり姿を消した。
急に立ち尽くした俺に数歩離れてから気づいたスペインが「ロマーノォ?どうしたん?」と不思議そうに問うてきたが、俺は去った方角を見詰めたまま「いや・・・何でも・・・」と答えたのみだった。
何故だか、心の中に秘めておきたいと、思った。
あの日から、俺は気が付くと日常の中に色を探すようになっていた。
学校の中にいればつい一目で良いからと視線を忙しなく動かしてしまうし、帰ったら帰ったで頭の中にぼんやりと記憶が残って惚けてしまう始末だ。
肩の辺りで切り揃えたサラリと流れる艶やかに美しい黒の髪は、まるで幾千の星を散りばめて瞬く夜空のよう。
同色の瞳はまさしく宝玉を押し込めたかの如く煌めく。
薄桃に染まる頬は愛らしく、形の良い唇は瑞々しくて可憐だ。
肌はバター色、俺達と異なるソレは舐めたら甘いんじゃないか、とさえ思えてくる。
細く手折れてしまいそうな首筋や手首、膝上できっちり揃えられたプリーツスカートの下からスラリと黒のタイツで覆われた足が覗いている。シャンと伸ばされた背が、凛として潔い。
その黒で包まれた下を思い描いてしまうのは健全な青年として誤った事では無いだろう。地味な配色の中に紛れた諸所の美麗さや慎ましさ、小さな身に内包した気高さや凛々しさが、俺の胸を締め付け苦しくさせる。
度々見掛ける姿にその日の気分を左右されたり、弟達にからかわれたり、そんな日々の中で、俺は漸く、今迄の奇行の理由に辿り着いた。
あぁ、これがまさしく、一目惚れだったのだと。脳髄を甘く溶かす温かな思いも、湧き上がる劣情も、全ての感情は恋煩いだったのだ。そして俺は、恋を知った。
「兄ちゃ~ん、紹介するね!俺とドイツの友達、日本って言うんだ。かっわいいでしょ~?」
良いだろーっ、と胸を張る弟の隣で、少女は微笑む。ずっと眺めて来た、他人に、ではなく、明らかに俺だけに向けられた柔らかな笑み。
流れる黒糸、濡れた黒曜石、色付く薄紅の頬、緩やかに持ち上がった口角。想像の中で美化された虚像を、リアルの彼女は遥かに飛び越えた。
「なっ、何を言うんですかイタリア君、私は可愛くなどありませんよ!」、と弟の言葉に顔を赤らめ反論する姿もやはり可愛い。
涼やかだが耳に馴染む声も良いなぁ、と思っていると、小さく咳払いをして俺を見た。広がる小宇宙が俺を映す。
「初めまして、只今紹介に与りました、日本と申します。イタリア君には御世話になっております。」
軽く頭を下げる動作は謎だが、日本と言う名前と"初めまして"の挨拶だけが頭に残った。
日本、極東の島国で強国、国土は俺達と変わらないように思うのにその経済力は世界トップクラス。長い歴史と伝統を持ちながら貪欲に新たなモノを吸収し自国の力に変えるその強かさ。武士・侍の国だと聞いていた事もありもっと屈強な肉体の荒々しい野郎かと思っていたのに、こんな小柄な少女だったなんて。
理知的な光と穏やかさを秘める瞳の奥には、未知と触れる事への緊張と微かな期待と不安が綯い交ぜになっているように見えた。
未知のモノ、つまり、それは眼前に立つ俺の事。
確かに、彼女、日本にとっては初めてだろう。今迄会話した事もなければ、まともに会った事すら無い。
日本の言葉は間違ったモノではないし、挨拶としては申し分のないモノなのだろう。けれど。
「・・・初めて、なんかじゃねぇよ、ちくしょー。」
思わず漏れてしまった言葉が、音となって空気を震わせる。弟に先を越された事実も相俟って、酷く心が波立った。
あまりにも小声だった為かはっきりと聞き取れなかったようだが、日本は俺の顔を見て微かに表情を強張らせた。
しまったな、と思い、どうにか遣り切れなさと苦々しさを胸の中に押し込む。
笑っている顔が見たかった、俺に向けて微笑んでくれる顔が欲しかった。ずっと、ずっと。
だから、悔しかったし、悲しみもあったが、日本の作りの良い貌を歪ませる事だけは耐えられなかったから、ふっ切って日本を見る。
「俺はロマーノ、イタリア=ロマーノだ。こちらこそ弟が世話になってて悪ぃ。」
少し硬質な声音になってしまったが、どうにか言えた。ぎこちなく笑えた、と思う。彼女がホッ、と息を吐いたのが分かったから、恐らくそれで良かったのだろう、と言う事にした。
こうして俺と夢にまで見て焦がれた少女、日本は、晴れて"赤の他人"から"顔見知り"に昇格したのだった。
それからの俺達はと言えば、これと言って大きな進展がある訳でも無く、かと言え一方的に見詰めるだけに留まっていた過去は、疾うに彼方へ失せた。
ヨーロッパクラスとアジアクラスに在籍する俺達はそもそも学内で会う事自体滅多に無い。校舎が違うからだ。
日常の中で、異なるクラスの学生が見える事が人為的作用による事柄でも無い限り可能になるのは学食や、図書館や、広大な敷地を持つ学園の中でも3~4割を占めようかと言う緑豊かな庭位なモノだった。
週に1度程で各クラスとの交流時間も設けられてはいるものの、全校生徒が一挙に集う校内随一の広さを誇るホールの中で見掛ける事は運任せになってしまう。