魔法の力が解ける頃
それでも、学内で運良く会えれば挨拶を交わすようにはなったし、時折混ざって遊びに行くような事も増えてきた。
ただ、やはり日本の中にいる俺の位置付けは"友達の兄"、程度なのだろう、そう思うと、日本への接し方にも迷いが生じてしまう。
友人である弟達の会話にもすんなり入れはしない上自ら話し掛ける事も躊躇い口数も減って、そうした俺に勘付いたのだろう、日本も悲しげな顔をしたものの、俺に気を遣ったのか彼女が気まずかったのか、俺と日本の距離は縮まらなかった。
何と言う事なんだと後になって悔やむ事などいつもの事だった。これまでの俺の遍歴はなんだったんだ、イタリア人の名が廃る!全くこれ程由々しき事態にかつて遭遇した事があっただろうか、否無い。
何時もなら回る口も、まるで俺の意思とは乖離して動く手足も、彼女の前では全てが鈍る。先に進む事へ無意識に恐怖しているのだ。偏に、嫌われない為に。
笑ってしまう位に、俺はどうやら日本に対して純愛らしいのだった。
突破口が掴めないままに過ぎ去っていた日々の後、とある日の事だった。
俺は静まり返る校舎を背に、渡り廊下を歩いていた。
授業中独特の緊張感を持った空気が肌を撫でる。耳を澄ませば筆の滑る音が聞こえてきそうだったが元より縛られて勉強する事の嫌いな俺は率先して意識外に叩き出す。
その廊下はヨーロッパクラスと特別塔、図書館や部室と言った普段学業では使われないような用途の教室が敷き詰められている場所を結んでいた。特に用があった訳でも無いけれど、図書館で昼寝も良いかもしれない、それに日本が図書館を良く利用しているようだから、暇潰しに彼女の本の趣味でもリサーチして会話に繋げるネタを探ろう、そんな軽い気持ちで向かっていた。
渡り廊下は横面の校舎の丁度真ん中に位置していて、校舎の端は陰になって見えない。
その片方から、チラリと人影が見えた気がした。
再度言うが、この時間は授業中で、生徒は大人しく教師の話を睡魔と闘いながら聞いていなければならない。偶然俺はその時間の教師に急用が出来たとかで自習になったから教室から出ているだけだ。
ならばサボリか、態々向かって行って諫めてやるなどと言う面倒臭い正義感など持ち合わせている筈もなく、横目で捉えただけで通り過ぎようとしたのだが。
ふと、耳に入り込んだ聞き覚えがある声にピタリと歩みを止め、もう1度其方を凝視した。
校舎の端、陰になって良く見えないが、よく見ると数人の男子生徒が囲んで壁際へと迫っているようにも見える。
慎重に、気付かれぬよう近付いて行くと、追い込まれた壁際に、見知った姿があった。
困り果てた顔で、自分よりも頭1つ分は優に高い背を見上げ、狼狽している。
何があったのだろうか、いじめ?カツアゲ?、なんだって良かった。事無かれ主義の傍観姿勢がこの時ばかりは何処かへ消え失せた。
消え入りそうな、「止めて下さい。」、と言う彼女の声が、俺の耳に届いたからだ。
「オイ、てめーら、んなトコで何してんだよ、このやろー。」
自分でも随分低い声が出たものだと、冷静な部分が少し高い位置からそう分析した。ついでに表情が険しくなるのも自覚する。
勝手に動いた足が然程無かった彼等との距離まで辿り着き声を掛けると、まさか人が居たとは思わなかったようで彼等は目を瞠っていた。
件の彼女も同様に、突然現れた俺に驚き目をパシパシと瞬かせている。しかしそれも一瞬で、フルフルと首を横に振ると、「私に構わず・・・危ないですから行って下さい。」、と雄弁に語った瞳で以て俺を見た。
そうは言うが今更この状況で引き返しても遅いし、何より気になる女の子を置いてのこのこ去るような馬鹿な真似だけは、男としてしたくなかった。
「こんな時間に薄暗い校舎裏で女の子1人囲んで何しようとしてんのかは知らねーが、相当みっともねー事してるって自覚はあんだろ?ダッセぇにも程があんぜ?」
青褪めた少女は困惑に満ちた表情で俺の一挙一動を見守っている。男達は俺の挑発にカチンと来たようで臨戦態勢を取ろうとしたが。
「良いのかよ、騒ぎにしたら色々と不味いんじゃねーの?ここが何処だか、分かんねぇ程馬鹿だってんなら、相手してやんねぇ事もねぇけど。」
ここ特別塔、最高階の端の部屋、丁度この真上の部屋は、学園の秩序、いや、学園の恐怖が居を構える生徒会室がある。
今の時間であれば恐らく、室内で執務でもしているのではないだろうか。
俺もどちらかと言えば苦手な分類に入るから会いたいとも思わないが、顔も名も知らない彼等はそれをちゃんと思い出したらしく、動揺を浮かべた後、肩を怒らせて去っていった。背に「覚えてろよ」の負け犬台詞が浮かんでいた気がするが、それはどうでも良い事だった。
その背を見送って彼女の方に目を遣ると、何時の間にか彼女は俺の前に立っていて、俺を見上げていた。
何時にない至近距離に思わず後退り掛けて、彼女から漏れた謝罪の言葉になんとか押し留まる。
「は?」
「御免なさい、危うく貴方までも危険な目に遭わせてしまう所でした。お怪我などはありませんでしょうか?」
心配、の2文字を大きく顔に浮かべている彼女は、あくまで俺の心配をしている。囲まれて怖かったとか、突然の事に戸惑ったとか、そう言った事ならば慰める事も容易いだろうに、他者を思い遣る心を優先させる彼女は自分の事など二の次のようだった。
それが歯痒くもあるが、そんな彼女を俺は好きになった訳で。小首を傾げて俺の言葉を待つ少女にフと笑い掛け、胸の前で組まれた両手に片手を乗せた。
「えっ?」、と盛大に顔を赤くした彼女の初な面にこれからの苦労を悟りつつも、「てめーに怪我が無かったんならそれで良い。もう安心だからな。」、そう言ってやれば、彼女はふんわりと、花が綻ぶように笑った。
それからは、怒涛の進展劇を見せた。まさかこんな事が切欠だったとは、いやはや人生分からぬものだ。
偶然にもその時間、彼女は担当教師から授業用の教材を持って来るよう頼まれて特別塔に向かった際、男子数名を見掛けて絡まれたと言うのだから気の毒なものだが、それすら俺にとってはまたとないチャンスだった。
ちなみに彼等は果たしてこの少女があの日本である事を分かっての所業だったのか、今となっては分からない。噂によると、例の生徒会長様の御怒りを買って何かしらの罰が下ったのだと言うらしいのだが、噂は何所までも噂だ。
更に余談だが生徒会長様、イギリスは、どうやら日本に友情以上の感情を抱いているらしいと言う、噂は噂でも確実性の高い話もある。1度見掛けたが、確かにあれは正しく恋する男の顔だった。気色悪い上に相手が相手なだけあって見過ごせはしないが。
あの事件の後、「助けて下さったお礼がしたいのです。」、と、彼女から直々にお誘いがあった。天にも昇る気持ちとはまさしくこう言う事を言うのかと体感した日でもある。
聞くに魔改造が得意であると言う国、日本は、なるほどそれに見合うだけの食に対する飽くなき探求心を持ち合わせていた。彼女が選び案内してくれた店は俺に合わせてくれたのかイタリア料理の店で、自国で食べる料理の標準値以上の味をしていた。とは言っても嬉しさと恥ずかしさに殆ど味など覚えていないのだけれど。