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ビリオン・センズ・ベイビー

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 東方の格言にいわく、犬も歩けば棒に当たる。
 アメストリスに置き換えると、これは、エドワード・エルリックも歩けばトラブルに巻き込まれる、といったものになるのだろう、きっと。

「…状況を確認する」
 東方司令部の作戦行動上の司令官でもある所の、軍の出世頭マスタング大佐は頭痛をこらえる表情で頭を抑えた。それを哀れみの目で部下は見ていたが、口に出したのは極めて実務的な内容だった。
「不正オークションの潜入捜査が行われることになっていましたが、手違いで捜査官ではなく別の人物が拉致され、現在行方が掴めない状態です」
 ただし、ありえないような内容ではあったが。
「…オークションの開催はいつ?」
「恐らく今日から明後日にかけてではないかと」
 ロイ・マスタングは嘆息した。一体全体、自分が何をしたというのだと言いたいが、言ったところで解決しないということを彼は十分すぎるほどわかっていた。
「なお、手違いで巻き込まれ、拉致監禁されていると思われるのは、鋼の錬金術師…、エドワードくんである可能性が高いです」
 副官は眉をひそめて声のトーンを下げた。彼女も彼女なりに心配しているのだろうと思われた。
 ――イーストシティに留まらず、全国規模で暗躍している人身売買組織が存在する。非合法の闇オークションを開催し、その場で特筆すべき要素を持つ人間達を売買する、唾棄すべき組織である。
 東方司令部では彼の組織が近々オークションを、しかもイーストシティで開催されることを突き止めており、潜入捜査をするために、情報を得た段階から調査と準備を進めていた。囮捜査官の教育もここには含まれる。
 だがしかし。
 肝心の、最後の詰めの段階で、よもやの事態が発生したのである。
「…まったくなんだってこう次から次へと…」
 ロイ・マスタング大佐は喉奥から搾り出すように声を出した。常に謹厳であり上司にも容赦ない副官もまた、今ばかりはこれに異論を唱えることもなければ、嗜めることもなかった。むしろ、哀れみに似た視線を送ってくれる。
 囮捜査官の代わりに拉致されてしまった人物。報告によれば、組織の気をひくためにあえて隙を作っていた捜査官をうっかり居合わせた少年が助けてしまい、そのために彼は組織に拉致されてしまったのだそうだ。助ける暇もなかったと。なお、その少年の名をエドワード・エルリックといい、おしもおされぬ天才国家錬金術師だったりした。さらに補足するなら、ロイ・マスタング大佐は彼の後見人的な立場にある。
「――どうなさいますか」
 やんわりとした質問は、彼女がロイの心中を推し量っていてくれるがゆえだろう。実際のところ、助け舟と言えなくもない。なぜならロイの答えは決まっているのだから。考えるまでもなく。
「…オークション会場へは私が行く。潜入隊の作戦決行時間は一時間早めてくれ。それから、…そうだな、もう少し泳がせるつもりだったが、コンテナ街に潜伏中の一味の逮捕を急がせてくれ、後は…」
 ロイは眉間に皺を寄せながら腕組みし、唸るようにひとつひとつ項目を潰していった。ホークアイ中尉はそのぞれぞれに小さく了承を示す。
「…そうだな、夜食を手配しておいてくれるか」
「夜食、ですか」
 中尉はひとつ、ふたつ瞬きをした。それに肩をすくめながら頷くと、ロイはこう説明した。
「あの暴れん坊のことだ。保護した頃にはきっと腹をすかせているよ」
「…アイ・サー」
 中尉の脳裏には勢いよく、気持ちいいほどによく食べる少年の姿が浮かんで消えた。
「夜中ですから、胃に優しいミルク粥でも用意しておきましょうか」
 ふふ、と笑う女性にロイは瞬きして、その後同様に意地悪い笑みを浮かべる。
「そうだな。仕置きにはもってこいだ」
 少年が産毛を逆立ててわめく姿を連想すれば、苛立ちや衝撃と共に確かに存在していた心配はいくらか払拭された。


 その頃、うっかり間違いで拉致されてしまった少年がどうしていたかというと。
「………ちくしょう」
 手足を拘束され、檻の中に監禁されていた。
 その黙っていれば整った顔はいまや怒りと憎悪に歪んでおり、気の弱いものが見たら気を失ってしまいそうなレベルだった。猛獣扱いも頷ける、とうっかり納得してしまいそうなほどに、今の彼は見るからに危険な顔をしていた。
 ちょっと近道をしようかと裏道を通ったのが、そもそもの始まりだった。ぐったりした誰かが数人の男に運ばれているのを見て、なにやってんだ、とうっかり声をかけてしまったのは、今にして思えばよろしくなかったのだろう。助けるにしてももう少し慎重になるべきだった。緊急事態だからと練成しながら近づいたのも、失策といえばそうだったのかもしれない。今さら遅いのだけれども。
 定石といえばそうなのだろうが、何者か、近づいたら若い女性だとわかったその人物を運んでいた男達の他に、見張りの人間も周囲にいたのだ。単純に。その見張りに後ろから角材のようなもので頭を思い切り殴られ、さしものエドワードも昏倒してしまった。そして気がついたらこのざまだ。
 ゆえに彼は知らない。一目見て子供の見目のよさと練成に驚いた人身売買組織の連中に誘拐されてしまったということも、その際の彼らの実に下卑た、品性の欠片もない、身勝手な会話も何もかも。ついでにいえば、彼らは昏倒したエドワードの腰の銀時計に当然気づいていて、それをさらなる付加価値として捕らえたことも。それらは恐らく、少年の感性にとって幸いなことだったに違いない。知っていたら憤死しかねない。だがそうやって考えると、真に幸せなのは彼を誘拐した組織の人間かもしれないのだが。何しろ、憤死するほどの怒りをエドワードが感じて、それを許して放置しておくことはあまり考えられない。
「…っかし、ここどこなんだよ、おい」
 彼はぼんやりとあたりを見回した。
 光源は極端に乏しく、気温はどちらかといえば低い。陽の匂いがしない気配は、地下だろうかと思わせた。しかし閉じ込められた檻や手足の拘束もそう思うことに影響を与えているだろうとは思った。後は窓がないこともか。
 部屋には窓がなく、打ちっぱなしといった風情で薄汚れているように見えた。地下の倉庫というのが一番雰囲気としては似つかわしい。
 エドワードは檻の中、吊り下げられるようにして拘束されていた。手首は上からつるされた鎖に戒められ、足には足枷、鎖の先には鉛玉ときている。せめて体が直立した状態でなければどうにか身を屈めるなりなんなりして練成が出来たのかもしれないが、そうもいかない。
 意識の覚醒とともに、エドワードの不機嫌は絶好調に達しようとしていた。とにもかくにも屈辱以外の何物でもない。
 しかし、当り散らそうにもフロア自体に人の気配がまるでなく、どうする手もない。腕をどうにか動かそうとすることならとっくに検証済みで、結果は芳しくなかったため未だこうして拘束されている。
「…っだー! ちっくしょ、誰かいねえのかよ!」