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ビリオン・センズ・ベイビー

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 うがあっと暴れてわめいても反応はなく、エドワードはがっくりとうなだれた。こんなことがばれたら弟にどんな説教をされるんだろう、と非常にみじめな気持ちになった。しかもよく考えたらここはイーストシティ。つまりはあの男のお膝元というやつではないか。と、いうことは、弟の説教どころかあの後見人サマの嫌味なのか説教なのか単純に馬鹿にしているのかわからないねちこい何かトークも待ち構えているということではないのだろうか。
 エドワードは泣きたくなった。今回に限っては、まあ確かに慎重さは足りていなかったも知れないけれど、自分で喧嘩を売ったわけでもなんでもないのに。
「…オレが何したってんだよ…」
 エドワードは小さな声で泣きそうに呟いた。どうシミュレーションしても、二人のお説教を免除される未来が想像できなかったので。


 もともとの作戦では、ロイは司令部待機の予定だった。
 組織はそれなりに大きいが、言ってしまえば、司令官が出張るほどの規模の事件でもなかったのだ。どちらかといえば、組織を摘発した後こそロイの出番になるだろう、そういう事情もあったが。
 だが、事情は変わったのだ、大きく。
 国家錬金術師の少年が拉致され、あまつさえ人身売買組織の闇オークションにかけられるだなんて前代未聞の椿事が司令部の置かれた都市で行われるだなんて、いい笑いものだ。しかもオークションにかけられるのが子飼いの錬金術師だなんて、ロイにとっては恥の上塗りもいいところである。
 だがそうした公式の、わかりやすい理由だけではなくて、ロイだけでなく東方司令部の、ロイに近しい、言ってみればつまり、エドワード・エルリックという少年にも近しい立場の大人たちは、もっと人道的な、まっとうな理由でその事件の解決を急いだ。つまり彼らは純粋に少年を心配し、組織の非道に憤ったのだということである。
 組織はアメストリスの裏社会に根を張っている。単純に売り飛ばされるのも考え物だったが、「まともに」売り飛ばされるのかどうかすら保障がない。例えば薬漬けにでもされたら、例えば体の一部でも傷つけられたなら、国家錬金術師という珍獣としてまともな人の扱いも受けなかったら――心配する材料は多く、大きすぎて、大人たちは本当に気が気ではなかった。
 もしも彼らが、さらわれた当人が説教される未来を憂鬱に感じているだけだなどと知ったら、それこそ本気で激怒しかねなかっただろう。彼らはそれくらい少年を心配していたのだ。少年が、心身ともに未だ「少年」であることを知っていたから。

 軍服以外の服装がいまひとつしっくり来ないのが非常に残念な若き司令官は、しかつめらしい顔で鏡に向かい合っていた。身に付けているのは単純な黒のフォーマルである。目立たないのが一番だというのがひとつ、他に手持ちがないのがひとつ、普通の服があまり似合わないというのがひとつ。
「……」
 タイの結び目を直しながら、ロイは自分の不機嫌そうな顔を見て苦笑した。
「…しかし高い買い物だ」 
 急遽変更した作戦に合わせて変動した工数、人件費にしろ雑費用にせよ、そう少ないものではない。その中にはロイのスーツの代金もまた含まれる。小さなことを言う気はないが、それにしたってと思うと力が抜けそうだった。おまけに、彼を買い戻すために実は現金だって用意した。いくらかかるかわからないが、全く無手で乗り込んでいくわけにも行くまい。保険として、渋々身に付けられる宝飾品も用意した。これはもう自腹である。本当はわざわざ買い上げなくても何とかすることは出来たようだが、もはやロイの中の何かは吹っ切れてしまっていたのだ。
 鏡の中、黒と白の中でひときわ存在を主張するのはタイピンとカフス。それらには本物の、大粒の天然宝石が使われている。特にタイピンに使われているイエローダイヤは非常に美しかった。ちなみにカフスには大粒のルビーが使われていた。ロイに宝石が似合うかというと難しい問題だったが、タイピンやカフスはさすがにおかしくない、どころかむしろ似合っていた。
「大佐、お支度は整いましたか」
「ああ」
 彼は扉の向うの副官に応えを返しながら、すぐに行く、と鏡に背を向けた。時計の針は八時を指そうとしていた。既にして早い時間とは言い難いが、それでもまだ夜は始まったばかりだった。


 わめいて暴れていたエドワードだが、さすがに体力の限界というものがある。ぐったりしてきたところで、まるでその様子を見ていたかのようにやっと人がやってきた。畜生、とそれでも気概だけで睨みつければ、数人の男たちは笑ったようだった。ひそひそと話し合っているのがますます癇に障って、なんだよてめえら、と凄むものの、結局相手にはされなかった。
「…んだ、…」
 と、その中の一人が何かを持って近づいてきた。瞬間的に背中の毛が逆立つような不快感を覚えて、エドワードはできうる限り身を引く。それは今の彼に出来る最大の防御だったが、やはり何の効力ももたない。
「…やめろ!」
 男は手に注射針を持っていた。中には透明な液体が入っている。尋ねなくてもそれをエドワードに注入するつもりなのはわかったし、それが歓迎すべき事態でないことも確実だった。だが、どうしようもない。
「…やめっ、」
 ろ、の声は出なかった。不覚にも総毛だってしまって。
「――…」
 そして、すぐに。口を布で押さえられ、そのまま意識は途絶えてしまった。

 意識を失った少年の小柄を、男達は無言で拘束から解放し、運び始めた。不意に手に入った目玉商品だ。大事に扱わなければ商品の価値を損なってしまう。彼らは卑劣であったがプロではあった。だから、少年を乱暴に扱うようなことはなかったのだ。…彼が大人しくしてさえいれば。


 オークション会場への潜入は、ロイの予想よりあっさりとしたものだった。むしろ疑ってしまったほどだ。ばれているのではないかと。
 だが、会場に入って三十分ほど経っていたが異変はなく、やはり気づかれてはいないらしい、とロイは判断した。それはそれで複雑だった。そんな間抜けな組織に捕まるなんてエドワードは何をしているのかと。
 次々に紹介される「商品」をロイは冷静に見ていた。だが胸中まで冷静だったかというと勿論そんなこともない。
 年端のいかぬ見目麗しい少女は北方の少数民の生まれだという。見たこともないような雪白の肌に、プラチナの髪をしていた。買い取ったのは齢六十を過ぎたような老人だった。
 精巧な、まるで眠っている人間のような人形と共に壇上へ連れ出されたのは人形師だということだった。なるほど、確かに天才の作であると頷けるその作品を作り出した人形師は、実業家風の男に連れられた、いかにも情人という風情の女性に買われていった。人形遊びがしたいのか職人の風貌が気に入ったのかは謎だが、嫉妬深い情人の手慰みには安い買い物だということなのだろうか。