ビリオン・センズ・ベイビー
「に、兄さん? どうしたの?」
宿のベッドの上、小さな体をさらに小さくさせる兄に、恐る恐る弟は問いかけた。
「…馬鹿が、攫われそうになったらこれ投げてルビーだっていえって!」
「…はい?」
わっ、とエドワードは顔を抑えて本当に丸まってしまった。恥ずかしすぎて死にそうだった。
「オレはもう二度と誘拐なんかされる予定はねえっつうのに! ねちねち人の失敗を…っ」
「………」
アルフォンスは非常に聡い少年だったので、ああ、とぴんときてしまった。そして気持ちの上で生ぬるい視線を兄に送る。
つまりは。
これは彼の兄の後見人が、今回の兄の失敗への予防策として強引に持たせたものらしい。もしも路地で誘拐されそうになったらこれを投げて逃げろと。あるいはこれを身代金代わりにして帰ってこいと。もしくは路頭に迷ったら使えということかもしれないが。
「しかもふたつも! しんっじらんねえ…!」
「…ふたつ?」
ごろんと落ちてきたのはルビーのカフスひとつだった。だがまさか他にも…、とアルフォンスは無言でトランクの中ぬをひっくり返した。そして絶句する。
「…なにこれ」
布に包まれた姿で不自然に落ちてきたものにアルフォンスは息を呑む。エドワードは頭を抱えて丸くなってしまった。
「………兄さん…」
アルフォンスは何もいわずに兄の肩をたたき、諦めろとばかり首を振った。
「大人をなめちゃあ、いけないんだよ…」
「なめてねーよ! むしろオレがっ」
「兄さんが? なに?」
エドワードは何か言おうとしてぐっと詰まってしまった。その顔は燃えるように赤い。
「ねえ、なに、何かあったわけ?」
「しっ…しらねぇっ」
――まさか実の弟に「物理的な意味で舐められてしまったのは自分だ」ともいえずしどろもどろになるエドワードに、ふう、と弟は溜息をつく。
「まあ、これに懲りたらさ、ひとりで突っ走らないことだよ。ほんとに、ボクなら耐えられないね、こんないたたまれなさ!兄さんって本当ある意味尊敬に値するよ。全然見習いたくはないけど」
「カフス、エドワードくんに差し上げたんですね」
仕事の合間、なんでもないことのように副官はそう尋ねてきた。だがまったく何の意図もない、ということはないだろう。しかしあったとしてもなかったとしても、そんなことは瑣末な問題だった。
「昔聞いたことがあるんだ」
「何をです?」
「なんといったかな、ある民族が…、常にダイヤを持ち歩いていると言われているのを聞いたことがないかね」
中尉は暫し思案顔でいたが、結局は「いいえ」と答えた。
「彼らはとても嫌われていて。まあ金持ちか、金融関係の仕事をしていることが多いのがその理由だというんだがね」
「はあ」
それとダイヤとどう結びつくのだ、と中尉は眼差しの奥にまぎれさせた。
「だからダイヤを持ち歩くのだと言う」
「富裕の証としてですか?」
「違うな、それはいくらなんでもないだろう。そうではなくて、襲撃されたときにダイヤを投げて、ダイヤだ、と言って逃げるためなんだそうだ」
「………」
「自分で身代金にして支払うため、ともいわれているがね」
ロイはそこでペンを回した。まだ続きがあるのか、と中尉は瞬きする。
「後は…、そうだな、これは物語だが」
「物語、ですか」
「私だって本くらい読むよ」
ロイは小さく笑って続けた。
「騎士に仕える女性に、仕えるべき主がいない間糊口を凌ぐための宝石を与えるという話があったんだ」
「はあ…」
「実際は、着飾ることを許されぬ身だからこそ、そうして別の理由に託けるのだろうけどね。着飾ることを」
「…タイピンは、大佐がお持ちになられているのですね」
中尉は話題の矛先を少し変えてみた。
ロイは瞬きした後、おかしそうに笑って答えてくれる。
「鋼のには赤い石の方が似合うじゃないか」
身代金か身代わりか、はたまた単に自分のもので着飾らせたいだけか――
とにかく確かなのは、エドワード・エルリックは誘拐犯より人身売買組織よりもっと厄介な相手に捕まってしまったらしい、ということだけだった。
作品名:ビリオン・センズ・ベイビー 作家名:スサ