No Rail No Life
【EMOTION/感情】
あの素直でない弟(他人のことはよく見えるものだ)が折角持ってきてくれたのだから食べるか、と起き上がり、タッパーを手にもった瞬間だった。
こんこん、とノックの音がして。はて今度は誰だろうかと、誰何の声を上げるより先に問われた。
「…俺だけんど。起きてっが?」
東海道は息を飲んだ。それは朝からずっと聞きたかった声だった。
けれど、秋田がちらりと言っていた気がする。山形は帰ってこられないようで、と。では、予定が変わったか、早まったか何かしたのだろうか?
「お…起きている」
おぼつかない足取りでドアに近づいて、開けた。
「…なんだ、…起ぎて平気が?」
困ったように眉を開いて、気遣わしげにそうっと尋ねてくる声も、やんわりと触れてくる節の浮いた手も、静かな黒い瞳も、何もかもが望んでいたすべてだった。
「…やまがた」
消えてしまわないように、小さな声で呼んでみた。そうしたら、くすりと笑うような気配があって、額に手がおかれた。熱を計っているらしい。
「…ん。あんましねぇみてぇだ。えがったな」
「…やまがた」
「ん? ああ、玄関口もねぇなぁ。…桃、買ってきたで。剥いてやるずら」
どこだかの袋を示してかすかに笑った山形は、東海道の肩を抱くようにして室内に足を踏み入れる。
ドアをそっと閉めて、…自分の部屋ではないので、施錠もした。自分が出るときはまたあけて、閉めてもらわなければならないが。
「…?」
室内に入った山形がまず見つけたのは、東海道ジュニアが持ってきたタッパーふたつだった。彼はわずかに首を傾げたあと、「ジュニアが?」と短く、端的に尋ねた。それに、東海道は無言で頷く。そうけ、と山形は目を細めて、えがったなぁ、そう言って東海道の頭をぽんぽん、とたたいた。
こくりと頷いた東海道の顔は、そのまま俯いてしまう。耳が赤くなっていて、照れていることなんて聞くまでもなかった。
ジュニアが持ってきた米飯は、山形の手によって、お茶漬けではなく普通の雑炊に変身した。彼は器用に雑炊を作り、いり卵を温め、ついでに桃を剥いて冷やして、ミネラルウォーターも補充してコップについでくれた。
雑炊を食べるのを手伝い、時に他愛のない話をして、半分も食べたところで「もういい」といった東海道に何も言うことなく、彼は椀を下げ、水と薬を出してきた。
「これ飲んだら、桃あっからな」
「…飲まないと、だめか。…だいぶ下がったぞ」
上目使いで聞いてくるのに、山形は瞬きしたあと小さく笑った。許してくれるのか、とほっとしかけた東海道の耳には、しかし「だめだず」という短い言葉が響いてきて、泣きそうな眼になってしまう。
「…桃さやっがら、な。おめぇ、桃好きだろ」
「……」
子供でもあるまいし、なんで桃につられて薬が飲めるか。
そう思いはしたが、な? と目を細めて覗き込んでくる顔にやられた。
普段は無表情にしか見えない顔が、目が、やさしさを孕んでこちらを見る、その瞬間にはいつだって勝てそうにない。連戦連敗だ。
「……飲む」
「そうがぁ、えらいなぁ」
ほころんだ口元から目をそらして、また熱が上がってしまいそうになりながら、東海道は一気に抗生物質と解熱剤を飲みこんだ。
――デザートには冷えた桃が待っている。ご褒美に。
「…もう、帰るのか」
布団に押し込んだ東海道が、捨てられた子犬さながらの目で見上げて、山形の制服の裾を掴む。帰らないで、とその顔は雄弁に語っていたが、仕事を切り詰めて切り上げて帰ってきた山形には、そろそろ時間がなくなってきていた。これでもかなり無理やり作った時間なのだ。
東海道がダウンした、と秋田から連絡が入って。
そうけ…、としか返せなかった自分を、秋田は電話の向こうで怒っていたようだったけれど、内心の動揺なんて電話では伝えきれないものだから仕方がない。本当は落ち着かなかった。どうしたのだろうかと。
事故だろうか、天候だろうか、精神的なものなのか、肉体的なものなのか、はたまたその両方なのか。
結局、居ても立ってもいられなくなって、仕事を早々に切り上げて帰ってきた。それでも最低限はやり通さなければ「上官」たる面子も立たないわけで、こんな時間帯になってはしまったが…。
「…寝なっせ」
「…たくさん寝たぞ、今日は」
「風邪はな、よっぐ食って、そんで眠んのが一番だぁ」
ぽんぽん、と布団の端を叩いて、山形は小さな声で言った。
「…おめさが眠るまんで、そばにいっがらよ。…大丈夫だず」
だから目を閉じろ、と、固い手が東海道の瞼をひと撫でした。それだけで、まるで魔法にかかったように眠気が襲ってきて、東海道は呼吸を深いものにする。
「………」
おやすみ、と唇の動きだけで告げて、山形はそっと目を細めた。
作品名:No Rail No Life 作家名:スサ