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桃染め

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「いい匂いがしますね。桃でしょうか」
 僕の横に立っているロイがいきなりそんなことを言い出したものだから、驚いてびくん、と肩を震わせてしまった。どうしてそれだけの言葉で僕がこんなに驚かないといけないかというと、その「匂い」の元が僕にあるからというわけだ。
 ピーチ姫にお茶に招かれた時、一度限りだからもうしないと、すぐに洗って匂いを落とすと、そういう約束の元で右手首に一回だけ桃の匂いの香水をつけられる……はずではあった。
 結果からと言うと確かに香水はつけられた。が、一度だけじゃなく何度もピーチ姫に香水をつけられてしまって、しかもかけられた香水は右手首だけではなく服や髪にもしっかりかかってしまって、もう腕を洗うだけでは匂いは落とせない。自室に戻って香水が染み付いた服を着替え、シャワーを浴びない限り匂いを落とせなくなってしまった。
 別に香水は嫌いなわけではない。僕の立場上、香水をつけている女性とお話をする機会などいくらでもあったから、鼻が曲がるほどきつい匂いでなければそれなりに好きではある。ただ、僕もちゃんとした男である以上、女物の香水をつけて外を歩くことなんて出来ない。これでは誰にも会いたくないから、誰にも会わないことを祈って急いで自室に戻ろうとしていたのに、よりによって通りすがったロイに呼び止められてしまって、今に至るというわけだ。
「誰かが香水でもつけているんですかね」
「そ、そうだね……」
 適当に相槌を打ってごまかそうとはしたものの、かえって怪しくなってしまった。誤魔化さなくてももうバレバレなのか、ロイが実に怪訝そうな目でこっちを見る。
「マルス、勿論これで僕を誤魔化せるなんて思っていませんよね?」
「いや、流石にそれは……思っていない」
「でしょうね。この匂い、ピーチ姫の香水ですよね。あの人にかけられたんですか?」
 非常に居た堪れなくてロイの顔を見ることができない。それでも目を逸らしたまま頷くとため息と共に、ピーチ姫ならやりかねませんね。というロイの声が聞こえた。
「いい、匂いですね。いつもピーチ姫がつけているものなのに、マルスがつけると違う感じがします」
 そう言ったロイが僕の右手を取って、手の甲にキスをする時みたいに僕の右手に顔を近づける。ロイは目を閉じているし、微かな息が僕の手の甲に当たる。
 なんだかその動作が本当に手の甲にキスをされるみたいで、どきどきしてしまった。別に手の甲にキスをされることなんて自分の立場上なんでもないことで、もう大分前に慣れたはずなのに。
「……キスでも、すると思いましたか?」
「あ、いや、そんなことは」
「顔にそう出ていますよ。本当に分かりやすい人だ」
 ロイが顔を上げ、にっこりと笑ってみせた。そしてそのまま、その唇を僕の手の甲に落とす。
 僕の手の甲に確かにロイの唇の感触がして、顔に火がついたように一気に顔が赤くなる。
「なっ……」
「別にしないとも、言ってませんしね。……顔、赤くなってますよ。マルスは王子なのにこんなこと慣れていないでどうするんですか」
 ロイが今度はいたずらっぽく笑うものだから、怒るどころかこれじゃ何も言うことができなかった。





 あとちょっと。あとちょっとで部屋に戻れる。
 幸いロイ以外の人には誰も会っていないし、そのロイに会った時がちょっと問題だったかもしれないけれど、ロイは僕が女物の香水をつけて歩いていたと周りに言い触らすような酷い人ではないから、今ではもうこのまま誰にも会わなければそれでいい。
 あとちょっと。本当にあとちょっとだ。角を曲がればすぐに自室に着く。
「あれ、マルス?」
 曲がり角の向こうからリンクがひょこんと顔を出した。早足で廊下を歩いていたのに、急に足が何かで固められたみたいに動かなくなって、そのまま自室であと少しのところで立ちすくんでしまう。
「どうしたのさ、いきなり固まっちゃって」
「別に、なんでもない……よ」
 何かリンクを納得させるような言い訳をしようと思ったのに結局今の頭じゃ何も思いつくことが出来ず、沈黙に耐えかね首をかしげたリンクがこっちに歩いてくる。
 まだ香水の匂いには気付いていないようだけれど、これじゃあすぐに気付かれてしまうだろう。あわてて僕は両手を前に出して、こっちに来ないでほしいという意を示して、
「だ、駄目だ!」
「だめって、何が? 何かあったの?」
「なんでも、ないけどさ。でも、こっちに来ないでくれ」
「なんでもないならどうしてそんなこと言うのさ。……あれ、桃の匂いがする」
 リンクが不思議そうな顔をしている。しまった、とうとうリンクにも気付かれてしまった。香水の匂いに気付いた以上、周りには僕ら以外誰もいないので匂いのもとが僕だと気付かれるのも時間の問題だ。
 どうしようどうしようと必死にどうすればいいのか考えたのだけれど、ここから逃げることしか思いつかなくて、急いで自室に戻りたかったはずなのにあわてて踵を返し逃げようとした。
 しかしリンクは僕が逃げるよりも早く、腕を掴んで僕を引き止めていた。
「やっぱりなんか変だよ。本当にどうしたの」
「本当に、なんでもないんだ。……離してくれ」
「……もしかして、マルスって今香水、つけてるの?」
 とうとう気付かれてしまった。恥ずかしくてリンクの顔を見ていることができず、足も完全に固まってリンクの手を振り払って逃げることも出来そうにない。
 僕が俯いてすぐに、くすくすという笑い声が聞こえた。顔をちょっとだけ上げると、僕の腕を掴んでいないほうの手でお腹を抱えて実におかしそうに笑っているリンクの姿があった。
「なんだ、びっくりした。もっと深刻なことかと思ったのに、こんなことだなんて」
「……笑わないで欲しいんだけどな」
「ごめんごめん。そんな必死になってるマルスがおかしかっただけだ。そっか、香水かあ」
 そこまで言ったところでリンクが、掴んだままだった僕の腕をリンクの方へ引っ張ってくる。背中に腕は回されていないのだけれど、腕を引っ張られたせいで僕とリンクの体が抱きしめられたときくらいに密着している。動きたいのに、離れたいのに、さっきも動いてくれなかったこの体がこんな状況で動いてくれるわけがない。顔と一緒にすっかり赤くなった僕の耳元で、リンクがそっと、
「いい匂いだね。でも、マルスはもうちょっと落ち着いた匂いの香水の方が似合うと思う」
「あ……う……」
 もう声すらまともに出てくれない。自分が動けない代わりに、リンクに離してと言うつもりだったのに。
「もしかして、赤くなってる?」
「ち、違う……」
「バレバレの嘘なんかついてどうするのさ。ほんと可愛い人だな」
 そう言った後に、リンクが僕の頬に短いキスをする。そしてすぐに密着していた体を離して、その場に固まって立ち尽くしたままの僕の肩を二回ほど軽く叩く。
「じゃあ、ちょっと用事があるから。じゃあね、マルス」
 ひらひらとリンクが手を振って、そのまま廊下の向こうに行ってしまう。僕の思考が戻るまで何十秒かかかって、ようやく今の状況下を理解すると一気に湯気でも噴出してるんじゃないかと思うほどに顔の赤さが酷くなって、同時に怒りの感情もふつふつと沸いてきた。
「リ、リンクっ!」
作品名:桃染め 作家名:高条時雨