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桃染め

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 慌てて大分小さくなったリンクの背中に向けてそう叫んだのだけれど、廊下の向こうからリンクの笑い声が聞こえただけだった。





 マルスの様子が変だ。変、というよりかは、マルスはいつも落ち着いているような奴なのに、今日だけは何故か俺の姿も見えないくらいに落ち着きがない。
 自室に戻ってくるなり力任せに扉をばたんと強く締めて、俺がいつもより早く戻ってきているのに、俺を無視してそのままベッドに突っ伏してしまった。ただ突っ伏しているだけなら別に俺も気にしないのだが、時折何故か手足をばたばた動かしていたり、枕をぼすんと殴ったり、頭を掻き毟ったりしているので何があったのか非常に気になる。
 それに、マルスが戻ってきてから何故か部屋の中に桃の甘ったるい匂いがするようになった。この匂いも気になる。確かピーチからも同じ匂いがしていたと思うのだが、マルスはピーチと会ってきたのか。だが会っただけでここまでマルスにも同じ匂いがするようになるものなのだろうか。
 マルスがむくりと体を起こした。そのままベッドの淵に腰掛けて、服の胸元をしわが出来るほどぎゅっと握り締めていた。今気付いたが、マルスの顔が林檎のように赤い。やはり何かあったのだろうか。
 俺はマルスの隣のベッドにずっと腰掛けていたのだが、腰を上げてマルスの隣に立つ。
「どうかしたのか」
 声をかけると、マルスは赤い顔で酷く驚いているようだった。
「あ、あれ? いつからここに?」
「いつからも何もあんたが帰ってくる前から俺は居たぞ。気付いてなかったのか」
「ちょっと……色々あってさ」
「あんた少し変だぞ。どうしたんだ? そんなに顔赤くして、何故か桃の匂いだってするし」
 俺がマルスの隣に腰掛けようとすると、いきなりマルスが飛び退いた。
「……あんた、さっきからなんなんだ?」
「いや、その、本当に色々あって頭が混乱してて、だから、えっと……」
「少し落ち着け。深呼吸でもしろ」
 腕を掴んで、俺の顔をずっと近づけてそっと囁く。マルスの体がびくんと震えた。顔を近づけると桃の匂いがそれなりに強くするので、やはりマルスが部屋の中に桃の匂いを持ち込んだらしい。
 マルスの顔は相変わらず赤いままだし、何か言いたくても言えないのか、口を魚みたいにぱくぱくさせている。
「出来ない。そんなの」
「なんでだ」
「とにかく、こんな状態じゃ落ち着くことなんか出来ない」
 そして、そのままマルスは俯いてしまった。どうして落ち着けないのだろうか。こんなになるまでマルスは一体何をしていたのだろうか。マルスが落ち着かないことにはまともな話は聞けそうにないので。もう一度落ち着けと囁いて、今度はマルスの額にキスをしてみる。
 それにはマルスもだいぶ驚いたのか、顔を上げてぽかんとした表情をしていた。しかし暫くするとまた俯いて顔を隠してしまった。それだけならいいが何故か肩が震えている。怒っている時のように。
「おい、一体どうし……」
「この、無礼者!」
 俺が言い終わるよりも早く、マルスは俺が掴んでいないほうの腕を振り上げて、俺の頬をばしん、と気味好い音がするほど強く引っ叩いた。
 マルスは俺より力が弱いとはいえ、剣を振り回して戦っているぶん俺以外の他の人よりもそれなりに力はある。勿論そんな奴から思いっきり頬を引っ叩かれれば、かなり痛い。叩かれたほうの頬をさすったまま、顔を上げてくれたマルスの表情を伺うと、マルスは眉を吊り上げて怒っていた。
「……なんでこんなことをするんだ?」
「なんでもどうしてもあるものか! みんなみんなみんな、僕を虚仮にして楽しいか!」
「皆? なんの話だ?」
「なんの話だじゃない! ロイもリンクもそして君も! みんなして僕をこうしてからかって遊んでいるだろう!」
「ロイとリンク? あいつら二人が何をしたんだ。それに俺はからかってなんかいない、お前を落ち着かせて話を聞こうとしただけだ」
「君って人は……!」
 マルスがもう一度俺の頬を引っ叩こうと腕を振り上げる。今度は俺もそうはさせまいとあわてて振り上げた腕を掴んで止めさせた。どうして怒っているかは相変わらずわからないが肩で呼吸をするほど怒り狂っているマルスも、俺に両腕を掴まれたまま何度か深呼吸を繰り返してやっと落ち着きを取り戻してくれた。
 しかし俺に手を離せと訴えてきて、俺が素直に手を離すとそのままベッドから立って、何も言わずに早足で部屋から出て行ってしまった。力任せに扉を閉めたのでばたん、とかなり大きい音が部屋の中に響く。
「なんなんだ、あいつは」
 部屋の中に一人残されて、痛む頬をもう一度さすりながらそう呟く。相変わらず部屋の中には桃の匂いが残っているので、マルスがついさっきまで居たということを、痛む頬と一緒に示してくれていた。
作品名:桃染め 作家名:高条時雨