Mugen浄土
それは偶然の邂逅であった。
本能寺で信長が光秀に討たれた。その報を受けた政宗は、速攻軍勢を率いて尾張を目指した。
覇権を握っていた信長の逝去は、則ち再びの乱世到来を意味する。そして現状から考えるに、光秀を撃つことこそが、今もっとも天下掌握に近い道であると思われた。奇襲という形ではあれ、光秀が信長を倒したことは間違いない。さすれば彼こそが、現時点では一番天下に近い男ということになる。
諸国の武将たちも、この機を逃しはしないだろう。なれば、地理的な不利さを抱えた奥州公である政宗は、一刻も早く出立する必要があったのだ。
そうやって目指す地を間近にし、野営を組んだ信濃の山奥で――光秀と出会ったのだ。
「……まさか、こんなところに目指す大将首がいるとは思わなかったぜ」
政宗は小十郎を供に、翌日以降の策を練りながら、周囲の散策を行っていたところだった。対した光秀は、何故か供もなく一人であった。
政宗にとっては紛れもない好機であり、光秀にとっては不運――の筈だ。しかし光秀は一向に動じた風もなく「思わぬところでお会いしましたね」と、むしろ悠然とした笑みを向けてきたのだ。
その余裕を不気味に思いつつ、油断なく刀を構えながら政宗は声を掛ける。背後で小十郎も刀を抜いた気配がした。
「なあ、明智光秀。仕合う前に、ひとつ聞きてぇ」
「なんでしょう?」
淡い月明かりの下、向き合う光秀はまだ構える姿勢を見せない。
「あんた――そんなに魔王のおっさんが憎かったのか?」
それは報を受けて以来、政宗の胸で澱のように残っていた疑問であった。
光秀がかつて信長に親族を殺められたという噂は聞いたことがあった。それでも彼は依然として信長の手足となって戦い続けていたので、それは所詮風聞に過ぎぬのだろうと、政宗は考えていたのだ。
しかし、今回光秀が謀反を起こしたことで、それが真実だったのではないかと思い直した。その心情を察すれば、空恐ろしいものがある。表面では忠臣の様を見せながら、腹の底では牙を向く機会を伺っていた、ということなのだろう。
けれど――。
「ふふ……あなたもあの御方と同じことを聞くのですね、独眼竜」
光秀は笑みを深くして、軽く頭を振ってみせた。
「どうして誰も理解してくれないのでしょう。憎いだなんて、とんでもない。私は信長公を誰よりも――愛している」
「……愛している相手を手にかけたってのか?!」
信じられない言葉を聞いて激高した政宗に反し、返る光秀の声は静かな響きをしていた。
「愛しているからこそ――手にかけたのですよ」
その何処か陶酔したような表情に、政宗の背筋は一瞬ざわめく。その眼の奥に、深い漆黒の闇を垣間見たような、そんな気がした。
だが、すぐに――深く息を吸った政宗は、改めて刀を構え直すと最初の一撃を繰り出した。
「――それ程に余が憎かったか、光秀」
問い掛けた信長の声は、あくまでも冷静だった。甲冑に身を包んだ彼の手には、珍しく銃ではなく槍が握られている。
「肉親を殺められた故か、それとも――濃を奪われた恨みか」
「滅相もない」
対峙した光秀は、緩やかな笑みを返す。信長の構えた槍の切っ先は、違わず光秀の喉元に向けられていたが、もちろん彼は恐怖など感じてはいなかった。
「貴方は何か覚え違いをされていますよ、信長公。私は貴方を憎んでなどいない。むしろ、こんなにも深く――愛している」
本能寺の奥深い箇所、そこに居るのは彼らだけだ。
行く手を遮る兵士たちを薙ぎ倒し、光秀が部屋へと辿り着くと、そこにいたのは信長一人であった。濃姫は疎か、蘭丸も傍らにはいなかった。
「確かに私はかつて、帰蝶――濃姫様に恋慕の念を抱いていました。ですが、それは全て幼き時分の幻の如き想いに過ぎません」
ばちり。
遠く、炎の爆ぜる音がする。その狭間では、剣戟の響きも聞こえる。だが、二人の佇む空間は、何故か何処までも静かで冷たい空気に満ちているようだ。
「むしろ、今の私は貴方に焦がれる。気高き黒の魂を持つ御方よ。その猛々しさ、そして雄々しさに」
ばちり。
爆ぜる音が近付いてくる。信長は表情を変えない。
「けれど残念ですが……魔王などと名乗っていても、貴方も所詮は限りある命を持つ人の子に過ぎません。やがては果て、そして――朽ちる」
ぴくりと信長の眉が動いた。光秀はそれを満足そうに眺めながら言葉を続ける。
「想像するだけで私の心は、斬りつけられるように痛むのです。貴方が他の誰かに殺められる。私の知らぬ場所で、その高貴な顔を苦悶に歪めながら、血を吐き、のたうち回って……ああ……なんて、辛い」
光秀は己の体を掻き抱く。信長は何も言わない。
「……だから、決めたのですよ。そうなる前に私の手で……この手で貴方を……殺す」
「それが謀反の理由か、光秀」
「ふふ……謀反……そう、謀反と呼ばれますか」
愉快そうに喉を鳴らした光秀は、血濡れた鎌を構えながら、一歩信長の方へと足を進めた。
「……そうですね、そう見えるのでしょうね……きっと後の世でも、私の名は主に刃を向けた、愚かな反逆者として語り継がれるのでしょう」
更に、一歩。間合いを詰めても、信長は微塵も動こうとしなかった。
「けれど構いませんよ。真実は私と貴方だけが知っていればいい。愛しています、信長公。誰にも渡しはしない。貴方は……私だけのものだ」
そして光秀は狂笑の声を上げる。
「さあ――共に参りましょう」
振り上げた鎌の先は――けれど信長の槍に跳ね上げられた。
「笑止!」
信長は一喝した。その顔に、ゆったりと笑みが刻まれる。
「余は誰にも従わぬわ。終わりを決めるも――己自身よ」
その刹那。
轟音と共に、信長の背後で襖が赤く染まった。終に炎の舌が部屋の中まで伸びてきたのだ。
赤い光に染め上げられながら、信長は毅然と胸を張り、光秀を真っ直ぐ見詰めてきた。その様は、何処か神々しさすらあり、珍しく光秀は魅入られたように動けなくなった。
「我は織田信長、第六天より来たりし魔王。ひとたび今生に別れを告げようが、必ずや戻り来て、この世界を我が手に収めようぞ」
信長は高らかに、謡うように告げる。そして彼は、マントの端を翻しながら――炎の中へと進んでいった。それはさながら役者が舞台から姿を消すときのように、悠然かつ自然なものであったので、光秀はただそれを見送ることしかできなかった。
「束の間の天下――楽しむがよい、光秀――」
それが耳に届いた、最後の言葉。
直後、激しく炎が渦を巻き――信長の姿は彼の視界から完全に消えてしまった。
熱が強さを増して。
煙は一層沸き上がり。
肉の焦げる匂いが鼻を突く。
そして光秀は――一人、残される。
「ああ……つれない御方だ……」
光秀は切なげに呟いた。
愛しき闇の王。この手で奪いたかった。その血を浴び、肉を喰らい、全てを己がものにしたかった。
けれど彼は最後の最後まで。孤高に。
ばちり。
炎が爆ぜる。
もはや建物の殆どは瓦解している。熱気に胸の奥が焼かれるようだ。
命は惜しくなかったが、共に逝けぬのならば、ここで自分が死ぬ意味はない。それよりなら――むしろ。
本能寺で信長が光秀に討たれた。その報を受けた政宗は、速攻軍勢を率いて尾張を目指した。
覇権を握っていた信長の逝去は、則ち再びの乱世到来を意味する。そして現状から考えるに、光秀を撃つことこそが、今もっとも天下掌握に近い道であると思われた。奇襲という形ではあれ、光秀が信長を倒したことは間違いない。さすれば彼こそが、現時点では一番天下に近い男ということになる。
諸国の武将たちも、この機を逃しはしないだろう。なれば、地理的な不利さを抱えた奥州公である政宗は、一刻も早く出立する必要があったのだ。
そうやって目指す地を間近にし、野営を組んだ信濃の山奥で――光秀と出会ったのだ。
「……まさか、こんなところに目指す大将首がいるとは思わなかったぜ」
政宗は小十郎を供に、翌日以降の策を練りながら、周囲の散策を行っていたところだった。対した光秀は、何故か供もなく一人であった。
政宗にとっては紛れもない好機であり、光秀にとっては不運――の筈だ。しかし光秀は一向に動じた風もなく「思わぬところでお会いしましたね」と、むしろ悠然とした笑みを向けてきたのだ。
その余裕を不気味に思いつつ、油断なく刀を構えながら政宗は声を掛ける。背後で小十郎も刀を抜いた気配がした。
「なあ、明智光秀。仕合う前に、ひとつ聞きてぇ」
「なんでしょう?」
淡い月明かりの下、向き合う光秀はまだ構える姿勢を見せない。
「あんた――そんなに魔王のおっさんが憎かったのか?」
それは報を受けて以来、政宗の胸で澱のように残っていた疑問であった。
光秀がかつて信長に親族を殺められたという噂は聞いたことがあった。それでも彼は依然として信長の手足となって戦い続けていたので、それは所詮風聞に過ぎぬのだろうと、政宗は考えていたのだ。
しかし、今回光秀が謀反を起こしたことで、それが真実だったのではないかと思い直した。その心情を察すれば、空恐ろしいものがある。表面では忠臣の様を見せながら、腹の底では牙を向く機会を伺っていた、ということなのだろう。
けれど――。
「ふふ……あなたもあの御方と同じことを聞くのですね、独眼竜」
光秀は笑みを深くして、軽く頭を振ってみせた。
「どうして誰も理解してくれないのでしょう。憎いだなんて、とんでもない。私は信長公を誰よりも――愛している」
「……愛している相手を手にかけたってのか?!」
信じられない言葉を聞いて激高した政宗に反し、返る光秀の声は静かな響きをしていた。
「愛しているからこそ――手にかけたのですよ」
その何処か陶酔したような表情に、政宗の背筋は一瞬ざわめく。その眼の奥に、深い漆黒の闇を垣間見たような、そんな気がした。
だが、すぐに――深く息を吸った政宗は、改めて刀を構え直すと最初の一撃を繰り出した。
「――それ程に余が憎かったか、光秀」
問い掛けた信長の声は、あくまでも冷静だった。甲冑に身を包んだ彼の手には、珍しく銃ではなく槍が握られている。
「肉親を殺められた故か、それとも――濃を奪われた恨みか」
「滅相もない」
対峙した光秀は、緩やかな笑みを返す。信長の構えた槍の切っ先は、違わず光秀の喉元に向けられていたが、もちろん彼は恐怖など感じてはいなかった。
「貴方は何か覚え違いをされていますよ、信長公。私は貴方を憎んでなどいない。むしろ、こんなにも深く――愛している」
本能寺の奥深い箇所、そこに居るのは彼らだけだ。
行く手を遮る兵士たちを薙ぎ倒し、光秀が部屋へと辿り着くと、そこにいたのは信長一人であった。濃姫は疎か、蘭丸も傍らにはいなかった。
「確かに私はかつて、帰蝶――濃姫様に恋慕の念を抱いていました。ですが、それは全て幼き時分の幻の如き想いに過ぎません」
ばちり。
遠く、炎の爆ぜる音がする。その狭間では、剣戟の響きも聞こえる。だが、二人の佇む空間は、何故か何処までも静かで冷たい空気に満ちているようだ。
「むしろ、今の私は貴方に焦がれる。気高き黒の魂を持つ御方よ。その猛々しさ、そして雄々しさに」
ばちり。
爆ぜる音が近付いてくる。信長は表情を変えない。
「けれど残念ですが……魔王などと名乗っていても、貴方も所詮は限りある命を持つ人の子に過ぎません。やがては果て、そして――朽ちる」
ぴくりと信長の眉が動いた。光秀はそれを満足そうに眺めながら言葉を続ける。
「想像するだけで私の心は、斬りつけられるように痛むのです。貴方が他の誰かに殺められる。私の知らぬ場所で、その高貴な顔を苦悶に歪めながら、血を吐き、のたうち回って……ああ……なんて、辛い」
光秀は己の体を掻き抱く。信長は何も言わない。
「……だから、決めたのですよ。そうなる前に私の手で……この手で貴方を……殺す」
「それが謀反の理由か、光秀」
「ふふ……謀反……そう、謀反と呼ばれますか」
愉快そうに喉を鳴らした光秀は、血濡れた鎌を構えながら、一歩信長の方へと足を進めた。
「……そうですね、そう見えるのでしょうね……きっと後の世でも、私の名は主に刃を向けた、愚かな反逆者として語り継がれるのでしょう」
更に、一歩。間合いを詰めても、信長は微塵も動こうとしなかった。
「けれど構いませんよ。真実は私と貴方だけが知っていればいい。愛しています、信長公。誰にも渡しはしない。貴方は……私だけのものだ」
そして光秀は狂笑の声を上げる。
「さあ――共に参りましょう」
振り上げた鎌の先は――けれど信長の槍に跳ね上げられた。
「笑止!」
信長は一喝した。その顔に、ゆったりと笑みが刻まれる。
「余は誰にも従わぬわ。終わりを決めるも――己自身よ」
その刹那。
轟音と共に、信長の背後で襖が赤く染まった。終に炎の舌が部屋の中まで伸びてきたのだ。
赤い光に染め上げられながら、信長は毅然と胸を張り、光秀を真っ直ぐ見詰めてきた。その様は、何処か神々しさすらあり、珍しく光秀は魅入られたように動けなくなった。
「我は織田信長、第六天より来たりし魔王。ひとたび今生に別れを告げようが、必ずや戻り来て、この世界を我が手に収めようぞ」
信長は高らかに、謡うように告げる。そして彼は、マントの端を翻しながら――炎の中へと進んでいった。それはさながら役者が舞台から姿を消すときのように、悠然かつ自然なものであったので、光秀はただそれを見送ることしかできなかった。
「束の間の天下――楽しむがよい、光秀――」
それが耳に届いた、最後の言葉。
直後、激しく炎が渦を巻き――信長の姿は彼の視界から完全に消えてしまった。
熱が強さを増して。
煙は一層沸き上がり。
肉の焦げる匂いが鼻を突く。
そして光秀は――一人、残される。
「ああ……つれない御方だ……」
光秀は切なげに呟いた。
愛しき闇の王。この手で奪いたかった。その血を浴び、肉を喰らい、全てを己がものにしたかった。
けれど彼は最後の最後まで。孤高に。
ばちり。
炎が爆ぜる。
もはや建物の殆どは瓦解している。熱気に胸の奥が焼かれるようだ。
命は惜しくなかったが、共に逝けぬのならば、ここで自分が死ぬ意味はない。それよりなら――むしろ。