Mugen浄土
「貴方の最期の言葉、信じる……ことにしましょうか」
天下になど元より興味はない。けれど、彼がその日を待てと言うのなら。
「その時にこそ――きっと――」
そして光秀は狂おしい笑いを上げながら、静かにその部屋を後にした。
幾度かに及ぶ打ち合いの後、大きく間合いを離した光秀は笑った。
「もう少し遊んで居たかったのですがね、独眼竜――今日は、この辺でお終いにしますよ」
「逃げるのか、明智光秀!」
刀を構えたまま、政宗は一歩前に進む。それを受けた光秀は、一歩後へ引いて再び距離を引き置いた。
「はい、逃げさせていただきます。私はここで死ぬ訳にはいかないのです――待たなければならないのですから」
「待つ――だって?」
「ええ、そうです」
また一歩、光秀は後に引く。政宗は何故か足を動かすことができない。
「あの方は仰った。必ず戻る、と。だから――その時を、私は――」
そして――光秀はひらりと身を翻し、そのまま暗い山道をいずこかへと駆け抜けて行った。
残された二人は、しばしの間黙ってその方向を見詰めていた。やがて小十郎が呟く。
「……逃がしましたな」
「……ああ」
本気で追えば、追えないこともなかったかもしれない。けれど、どうしてもその気にはなれなかった。理由は――政宗にもわからない。
深い溜息と共に刀を鞘に収めた政宗の耳に、小十郎の声が届いた。
「しかし――これで良かったのやもしれませぬ」
「……なんだって?」
思いも寄らぬ内容に顔を向ければ、彼の右目は穏やかな表情で政宗を見返した。
「あの男の魂は病んでいる。ならば、貴方様が手にかける程の値打ちは御座いません。いずれ遠からず――自滅することでしょう」
「……ふん」
面白くもなさそうに政宗は鼻を鳴らした。そして、先刻光秀が発した言葉を反芻する。
「俺にゃ皆目解らねぇ。愛しているから殺した、だと? まるで質の悪いJokeじゃねぇか。そんな理屈があるもんかよ……!」
想う相手の幸せを願うのが愛だと、そう政宗は信じていた。例え自らが傷ついたとしても――或いは、その命が失われたとしても、相手にだけは永らえて欲しいと、その思いが愛することなのだと。だから政宗には、光秀の心情を理解することなど全くできなかったのだ。
「お前はどうだ、小十郎」
当然同意があるものと思い、政宗は問い掛けた。けれど――返されたのは、意外な言葉であった。
「理解出来兼ねる――とは申せませぬ」
目を見張った政宗に、小十郎は何処か涼やかな笑みを向ける。
「ですが、だからこそ――共鳴したいとは、露ほども」
「小十郎……」
呆然と呟く政宗から視線を外すこともなく、依然笑みを口元に浮かべたまま、けれど淡々とした口調で小十郎は言った。
「ご理解出来ぬ方がよろしいのですよ、政宗様。先に申し上げた通り、それは病む者の想いに御座います――貴方様には似つかわしくない」
そう言った腹心は、すぐに続けて鋭い響きの声を発した。
「さあ――陣に戻りましょう。皆も案じ始めている頃でしょう。何より、ここで明智と邂逅してしまった以上、もはや奇襲は無理ということになります。策を一から練り直さねば」
そして彼は踵を返すと、珍しく先立って戻る道を歩き出した。そのとき政宗は、微かな月の光だけが頼りの山の中、その姿が周囲に溶けていくような錯覚を覚えた。
小十郎。
声に出さず、政宗は呼び掛ける。
なあ、小十郎。あいつを理解できると、お前は言った。ならばお前の中にも、光秀と同じ闇があるのか。知らず心を、病ませていたのか。
ならば、小十郎。俺に何ができる? お前を救うために、何が――。
小十郎が立ち止まり、振り返った。
「政宗様?」
その表情は見えなかったけれど、発せられた声は何事もなかったようで、だから政宗はやっと我に返った。
「あ、ああ。Sorry――今、行くぜ」
努めて明るい声を戻し、想いを払うように一度大きく頭を振ると、政宗は歩き出した。今は行軍の途中なのだ。私事に捕らわれている時間などない。そう、自分に言い聞かせながら。
【終】