さよならと、ありがとう
更に歩き続け、オフィス街の外れ、崩れかけたようなビルの中に足を踏み入れる。見た目とは裏腹にしっかり残っている内装も、人の出入りが極端に減ったことにより埃やらツタやらには進入され放題だったが、人が寝泊りするには全く問題がなく、弟たちを西にやってからの俺の生活拠点になっていた。
使えなくなったエレベーターを横目に、非常階段を上って屋上に向かう。もとは八階建てのビルで、見晴らしはそれなりに良い。俺がここを拠点に選んだ理由のひとつでもある。
昼間だというのに、明かりの灯らない暗い階段を上りきる。蝶番が壊れて役目を果たしきれていないドアを開けて、いつもなら有り得ない人影を屋上に認めた。肩甲骨の辺りまで伸びた金髪を風に煽られるままに、ドアに背を向けて座っている。
そもそもこのビルは俺のものではないのだけれど、こうして人が入ってくるようになったら拠点にするには難がある。新しい寝床を探さなくてはいけないなと思っていると、金髪の男が声をかけてきた。
「嫌な世の中だね。そうは思わないかい?」
「……その質問はさっき答えてきたばかりだ」
今日は厄日か。見知らぬ人に似たようなことを言われて、もしやこいつも人とはぐれたのではないかと思ってしまう。だが本日二人目の、言葉が通じる人間だ。一日のうちに二度も会話が出来るなんてもうこれが最後の機会かもしれない。
男は笑って、君は面白いなと言った。
「じゃあ、別のことを聞こう。君は今、生きていて、楽しいかい?」
「宗教なら間に合っている」
「え、違うよ。真剣に聞いているんだけど」
そこで初めて男がこちらに顔を向けた。まだ若い。同い年か少し上か。座ったままだから分からないが、背丈もあまり変わらないだろう。
「僕はね、全然楽しくない。どうして生きているんだろう。どうして産まれてきたんだろうって、そんなことばかり考えてる」
「哲学的だな」
「人なんて醜いものだし、騙すし裏切るし、そんな世の中で、生きている意味なんてないじゃないか」
「俺は、そんなこと考えたこともない。仕方がないだろう、産まれてしまったんだ。生きなくてはならないんだ」
「そうか。……君は、」
不意に男が立ち上がり、屋上の周りを囲む朽ちたフェンスに寄りかかる。
「立派だね」
男が消えた。数秒して、何かが地面に激突した音が聞こえた。
立ち上がった男の、背丈はやっぱり大して変わらなかったなと、思った。
最期に男が手をかけたフェンスを触ってみる。ぼろぼろで、錆が手に付着した。それを服の裾で適当に払い、その場に座りこむ。下を覗くことはしなかった。
生きる意味なんて考えられない。こんな世の中だけど、こんな時代だけど。
もしも生きて良かったと思えたなら、最高に気持ちいいだろうに。
俺は目を閉じた。
作品名:さよならと、ありがとう 作家名:きじま