それは刹那にも似た
月のない夜だった。
ここぞとばかりに旗を集める者もいれば、夜陰に紛れ朝を待つ者もいる。そんな武道大会の最中。近くなる金属音に、潜んでいた木陰から中在家長次は身体を起こす。
―逃げるか、このまま様子を見るべきか。
手に馴染んだ縄標の、標の根元を掴んで息を殺す。
長次自身、四年生の中では身体は大きいほうだし、力もある。だが、実際のところ接近戦はあまり得意ではないし、メインで使う武器も中距離戦に強いものだ。だから、夜は獲物を探し走る忍たまの不意を打つべく、こうして潜み続けている。
誰が、どのように戦っているのか。それ次第では戦いが終った不意をつく漁夫の利を狙うのもいい。反対にこの場を離れるべきかもしれない。
状況判断も、忍の大事な技能のひとつ。闇雲に挑むのは己の腕試しにちょうどいいが、それは低学年までの話。実際、低学年の出場者はそういう目的のものがほとんどだ。
だが高学年になるとそうはいかない。
勝敗と関係ないところで、教員たちは忍たまたちの戦術評価を下す。兵法を学ぶ長次にしてみれば、決して無視できない視線といえた。
闇に揺れる人影はいよいよ近くなって、打ち合う金属音も、もうはっきりと耳に届く。
しかし、それはくない同士が打ち合っているものとはどこか違う。そう、奇妙に間の抜けた音は、長次が使う縄標を小平太がくないで叩き落とすようなもの。
―攻撃側は距離を取って仕掛けている。攻撃されている側は、防戦一方か。
中距離戦では、こちらを狙う相手を見つけ、一気に距離を詰めて懐に飛び込むのがセオリー。だが音から察するに、延々と中距離攻撃が続いているようだ。
つまり、攻撃側がよほどの手練れか、防戦側が相手を見つけられない未熟者かのどちらか。
どちらにせよ、ここに居るのはあまりよろしくないらしい。防戦側が長次を見つけて攻撃者と勘違いする可能性もある。そうして戦いとなれば、本来の攻撃者が漁夫の利とばかりにふたりの旗を奪いにくるだろう。
気配を殺し、木陰から一歩、足を踏み出す。
さらに様子を伺えば、視界に入るのは若草色の三年生の忍服。もう忍ぶどころではないらしく、必死の形相で走ってくる。その背後から飛び出してきた銀の輪が、彼の行く手を遮るように弧を描く。
「うわぁぁっ」
彼の手に握られたくないは闇雲に振り回され、勢い余ってその場に転がる。それすら計算していたかのように、新たに闇から飛び出してきた戦輪が彼の足を狙う。
―三年生相手に、大人気ない戦い方をする。
もはや彼に、戦意の欠片も残っていない。もちろん油断を誘う演技という可能性は捨てきれないが、戦輪の使い手は獲物を嬲るような戦い方をしかけている。
這うように地面を転がって避けた彼の頭の上から旗は落ち、逃げる手によって無残に折られている。
さすがにこれ以上は監視している教師がストップをかけるだろうし、なにより縄標と戦輪の戦いは分が悪い。そう判断すると、長次は跳躍のため足に力を込める。
そのとき、離れた木陰から新たな銀の輪が飛び出してくるのが見えた。一拍の間をおいて、同じ軌道でふたつ目が。
とっさに飛び出したのは、反射といっていい。
もし地面に転がる彼がひとつ目を弾いたところで、ふたつ目の刃が彼を傷つける。武道大会でけがをしない忍たまは皆無だが、だからといってそれには限度がある。刃は確実に、彼の首を狙っているのだから。
跳躍と同時に、狙い定めた標を放つ。
金属のぶつかり合う澄んだ音は、ふたつ。ひとつは長次の標が、もうひとつは枝上より投げられた手裏剣が奏でたのだろう。
飛んで繰る戦輪が足元に落ちて、突然現れた第三者。狙われた子供はガタガタと震えて声もない。
覚悟、というものは、いつ身の内に生まれるのかはわからない。ただ、この子はまだ三年生。それに武道大会はあくまで学園行事で、怪我は当たり前でも、命までやりとりをする場ではない。甘いといえばそれまでだが、怯えるのも理解できる。
大丈夫だと肩を叩いてやれば、恐怖に満ちた顔から大粒の涙がこぼれる。そんな長次たちと戦輪の使い手との間を遮るように、黒い影が音もなく降り立つ。
一瞬緊張する右手は、これまでの訓練の賜物。小さく息をついて、自分たちの守護者たる人の背を見上げた。
「出てくるんだ、滝夜叉丸!」
黒い衣の試験官―言わずも知れた、学園の教師だが―山田伝蔵の声は硬い。普段は忍たまを見守る優しい父親的存在の人も、怒らせるとこの人に限らずみな恐ろしい。
彼の手が拾い上げた戦輪を揺らせば、少しばかり離れた大樹の梢が揺れる。
「……お前な。これは武道大会だと言ったはずだぞ? 戦意を喪失している者の急所をなぜ狙う」
「これ以上逃がさぬためです。ルールでは、動きは封じてよいとありました」
あっけに取られる長次の前で繰り広げられる口論。伝蔵の前に立ったのは、彼の腰よりもやや上ほどの、青い衣に包まれたま小さな身体。
――これが先ほどまでの襲撃者なのか。
普段から無口な男の絶句する姿などそう見られたものではないが、このときの長次は絶句したというしかない。ただただ、二の句が頭に浮かびもしないのだから。呆れているのか驚いているのか、自分の感情なのに把握ができないとは、らしからぬことだ。
「それで足首と首を狙ったのか」
「はい」
怒る伝蔵に対して、まだ声変わりもしていない声が淡々と答える。なんとも薄ら寒い光景だと、無意識のうちに腕を撫でる。
「はい、ではない! お前の戦輪が狙い通りに相手を捕らえていたら、こいつは二度と、忍たまとして活動できなくなるかもしれんのだぞ」
「旗を奪うのが目的です」
「だから相手がどうなってもいいというのか。この愚かもんがっ」
ボコッと拳骨をひとつ。教師の鉄拳を頭に落とされたことのない忍たまは、おそらく皆無だろう。同じ四年生の優等生・立花仙蔵だって一度や二度はある。
そしてそれはたいそう痛いものなのだが、小突かれた子供は伝蔵から視線を逸らすこともしなければ、痛いと不満を口にすることもない。
―気持ちが悪いな。
腕を撫でる掌で口を拭う。自分たちが二年のときを思い出しても、ここまで相手を傷つけるのに躊躇しない子供はいなかった。
いや、もしかしたらこの後輩は、誰かを傷つけることがどういうことか理解していない可能性もある。
忍たまたちは、自分たちの持つ武器でけがを負ったり負わせたりしながら、次第に傷つけるとはどういうことか学んでいく。もちろん座学で何度も繰り返し教えられるが、それは実感を伴ってはじめて実になる。
おそらく同学年の中で、長次は命のやりとりがどういうものか、最も早く気づいたひとりである。だからこそ、目の前の無知さは、気分が悪いものでしかない。
―だが、本当にこの子供は傷つけることがどういうことか、知らないのか?
無邪気に武器を振るい、無駄に力を得た気分になっているのとは様子が違う。手に持つ武器の威力を知らずに使っているのとも違う。
先ほどまでの彼は、冷酷なまでに獲物を追い続けていた。逃がさぬために、急所も狙った。それは、忍の追跡となんら変わりがないではないか。